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在日那三届

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緑と少年(中国・山西・呂梁への植樹紀行)

日本語原文(菊地正泰)中国語訳文(李 金波)

二00九年四月二十六日朝、第二次植樹訪中団員十五名はマイクロバスに乗り、植樹祭の地に向かった。この団に私は「枯れ木も山の賑い」と一団員として参加した。



山西省太原市から高速道路を南西に走り、汾陽市を過ぎ北西に向い離石市で高速を降り、国道を北へひた走り峪口鎮に着いた。進むにつれ平地は狭まり、呂梁山脈の懐であるのがわかる。東に折れて舗装されていない道を走り、工事現場の道脇に車は止まった。

太原から先導してきた公安の車と省役員の車、続くバスから団員が降りたとき、すでに正午になっていた。

道の右側は川で、左に二階建ての新しい食堂があって、青い立看板の上横に李氏と黄色に、赤い縦字は吃吃看食府と書かれている。壁面には六、七メートルの横断幕が張られ「熱烈歓迎埼玉県日中友好協会訪中団」と赤布に白抜きで掲げられていた。

食堂前の道いっぱいに、早くから待っていたのだろう、地元役員と一般の人たちが混然としていた。

いち早く開店した店のまわりは建築中の材料置き場で、少し離れた建物の上には、レンガ積みの土工たち十数人、手を休め訪問団をもの珍しそうに見下ろしていた。

川沿いに走り道の十キロ先には、北武当山という道教の古刹道観が一九八二メートルの山頂に鎮座している。道教を崇拝する民衆は多く、この道はそこに至る山道口であった。この度、植林の山作りの拠点をこの地にしたのと合わせ、客の足を止める小さな商店街を作ろうとしているのだろう。なかなか抜け目がない。

中国政府は自然環境に目を向けはじめた。どれほどの国家予算を注ぎこんでいるのが私にはわからないが、山西のどこを走っても。目にする山肌には点々と植林の苦労が見られた。急な斜面には一本一本の木それぞれに、石灰で縁を固めた土留めを作り、僅かの雨も貯える工夫がなされ、可愛い風景だが涙ぐましい。あきらかに農地を潰して植林の苗木作りをしている耕地が続いていた。農民は現金収入になるから精をだして作るのだろう。山に植える作業は山西農民ではなく、四川あたりからの農民工であると聞く。下には下があるのである。

店造りをはじめた一画の前の河川敷は二十メートルはあるのだが、水の流れは二メートル巾ほどで、枯れた雑草がところどころ茂みを作っていた。川の向こうは山と山が迫る溝を掘り崩し、その土をなびって造った広場になっていた。その奥の山際が植樹祭の会場となっているようだ。

揃いの青や赤色の服を着た人たちと村人が、その広場に散っている。中国でやたら流行っている、空気を入れて膨らませたアーチ形のビニール看板が、入場門のつもりか中ほどに見えた。それは実際には近いのだが、黄麈が舞うせいか何か遥か遠い情景として私の眼に映っているのだった。

食堂入り口の脇に、四つの洗面器に澄んだ水がなみなみと汲まれ、真新しい手拭が置かれていた。こんなことはかってなかったことであった。水の極度に少ない山西の山奥で、こんな接待にあずかるとは恐れ入った。日本の農家のお盆などで、墓掃除から帰ると、嫁さんが縁側に用意しておく手洗いの、あの風習がここにもあったのかと心なごんだ。

私たち団員と、太原から先導してきた公安官や省役人、地元で待っていた役人と四十名ばかり四つのテーブルを囲んだ。

田舎料理はふんだんに出された。ビニール栽培で採れた野菜に数種類の茸、ジャガ芋の澱汾を加工したもの、肉と川魚などが矢継ぎばやに出され、テーブルは皿の山となった。

食事のしめくくりに、山西人が世界の麺発祥の地はおらが所であると豪語する麺が椀でくばられ、スパゲッテイ式にたれをかけて食べる。これらすべての料理は、山西特産の黒酢が美味をひきたてた。山西でこれほど不味い地産ビールを飲んでことがなかったが、すぐに醒めた。

道に出ると現場用の仮設トイレが置かれ男女別に仕切られているが、工事用の砂利が片方の扉をふさいでいる。川には大量のごみが捨てられ、細い川水はくねってながれていた。トイレとごみの二つを見て、いかにも中国的であるのがおかしい。古人がいったという「衣食足りて礼節を知る」は、二千年の時をへてもいっこうに現実の世には生かされていないのである。

公安車を先頭に、枯草の河川敷に掛かる橋を渡り、植樹祭会場の広場に向かった。

空はどこまでも青く澄みとはいいがたいけれど、太原より青く晴れていた。時おり風が吹くと、黄塵が龍の尾のように巻き上がった。

車から降りた団員が式典場に歩きはじめると、広場の中央にかまえていた十七名編成の太鼓が、待ってましたとばかりに打ち鳴らされた。その素朴な響きは、太古の昔より変ることなく受け継がれたのだろう、万人共通のリズムであろうと思われた。指揮者一人は黄色、楽団員は赤の上下に幅広の黒帯をしめ、全員が娘たちであった。

楽団の後に、青色のジャージを着た小学五、六年生が、赤いネッカチーフを首に結び、八十人ほどが棒のように整列していた。

両山の裾を高さ二十メートルは削り取った絶壁に、ショベルカーの爪あとが残っていた。小石一つない純粋無垢の黄土である。切り崩された上の山肌には、腰の高さにも伸びきれない芝草が、かろうじて地肌を覆っていた。

削った土を平らにならした広場は遠目に広い。この場所をどう生かすのか、数年後に見てみたいと思った。

赤い歓迎のビニール管を潜ると、赤い絨毯が敷かれていた。マイクが中央に立ち、左右に大きな拡声器が置かれている、長いテーブルが四台横に並び、赤い布をたらし、卓上には果物と水のペットボトルがのっていた。

省と地元役員、訪問団員は椅子にかけたとき、爆竹が弾けた。硝煙の臭いが流れてくる。空に向かい続けざまに空砲が放たれ終わると、儀式は賑々しく型通りに行われた。

省の対外友好協会の役員が進行を務める。省と県の林業庁役人の挨拶は、いずれも美辞麗句に飾られていた。それに答えて、今回の団長であり協会の会長が中国語で話しはじめた。

爆竹や空砲で遠巻きになっていた少年や太鼓隊、子供や大人が、演説をする会長の近くにどっと集まってきた。中国語のわからない私は人数を数えた。幾重にもなっているから正確にはつかめないが、少なくとも二百人を超えていた。少年たちは一言も漏らすまいと聞き耳を立てているのがわかる。青年と大人たちは腕組みをしたりポケットに手をつっこんだりしているが、熱を入れて話す会長をじっと見詰めていた。鍬を前にしゃがみこんだ老人も耳をかたむけている。老人は今も変らず人民服だ。手拭いを被った老婆も人民服を着ていて小さく可愛い。そのおだやかに黒くしわんだ老人たちが若い頃、日本が犯した残虐を躯で覚えていることだろう。小学低学年と幼児は赤い絨毯に座り込み、鎌首をもちあげ聞いているやらいないやらである。

これだけの人が集まると、どこでどう嗅ぎつけるのか屋台が四つばかり出店し、棒アイスや、怪しげな棒つきのソーセージを焼いて売っている。子供に買ってやったアイスが溶けるので、父親がすすっては渡すなど落語親子の世界であった。でも九割九分の聴衆は、ときおり峰から吹き降りてくる風に黄塵が巻き上がっても、じっと聞いているのだった。  

開会式は済むと、式典会場の後ろに準備されている植樹式となった。すでに穴は掘られ、脇に油松が土のていた根をくるまれて置かれ、バケツの水も用意されていた。先ほど整列していた小学生が、先に斜面を駆け上がった。私たちの植樹を手助けしてくれるのだ。彼らは朝から準備の手伝いをしてくれたという。

第一次の植樹は山深い所であったから、農民たちが手伝ってくれた。ここは村里に近く、日曜日でもあったから動員されたのだろう。

少年たちはシャベルを渡してくれた。中国のそれは柄が長く把手がないから扱いづらい。斜面に足をふんばり根元にぼさぼさの黄土をかける。少年は松を真っ直ぐに持ち水を注ぐ。一本また一本と、一メートルほどの苗木が次つぎに立っていく。ものおじしない少年と目が合い笑顔をかわす。

伸びていく木を、これからの世を背負う少年と共に植えた喜びを、全団員は感じたことだろう。

植樹祭のすべては終わった。

青い空に、提燈にみたてた赤い三尺玉の風船が風に靡き、平和であった。

ニ00九年五月八日

日本語原文中国語訳文
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by li_japan | 2009-10-15 23:14 | sx(晋、山西) | Comments(0)
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