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一言一会/那三届

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鳴雪自叙伝⑥ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

二十一

私が前にもいった、麻布笄町への転宅は年齢では、七十一歳であった。七十は杜甫の詩に、『古来稀』ともいっていて、それ以来は古稀の祝と称えて誰れもする事である。しかし私は別に祝いたいという感もなく、また祝うとすると金もいるが、その金もないのでそのままにこの年も終えてしまったのであるが、故子規氏の庵で時々開く、旧友会の連中が特に私の古稀を祝って遣ろうとの事で、やはり子規氏の旧庵でそれを催おしてくれられた。その時の中村不折氏の書いた私の肖像は表装までしてもらっている。尤もその肖像の体勢が、私よりも不折氏の方に肖にているという事はその席上での笑柄に上って、少数ながら面白い会であった。それから、郷地の松山の知人達においても、私の古稀に達したということを聞いて高浜近傍の梅信寺という寺の座敷を借りて祝宴を開いて下さった。暑中で殊に伝染病の行われていたにもかかわらず、なかなか大勢集まって、私の娘婿の山路一遊(師範学校長)を、私の代りに主賓として饗応され、なお席上の揮毫の合作や署名の大幅を贈ってくれられたのは、私の嬉しく思う所である。

私の七十歳の年はこれだけで終って、いよいよ七十一歳となった頃、かつて寄宿舎に居た、勝田主計氏和田昌訓氏が発企して多くは旧寄宿生であった人々と、それに同郷の先輩数人を加えて、醵出された金を以て私の寿碑を郷地の道後の公園に建てらるる事になった。これは主として旧寄宿生というのであったから、わざと広くはこの事を及ぼされなかったようである。それが段々と運んで、この年の九月に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い来いといわれたのだが、私は前にもいった如く、新聞や雑誌で多くの俳事を担当しているし、また旅行という事を余り好まぬ方なので、その好意は辱かたじけのう思いながらも、いつも辞退してばかりいた。しかし今度は寿碑も建てて下さったという訳から、以前の関係もあるし、是非とも帰郷せねばならぬと決心した。そうして妻も殆ど三十年前に松山を見たのみで、どうか今一度見たいという希望もあったから、これをも同伴する事になった。尤も同郷人の歓迎も私夫妻共にという事であったので、そこで九月の十六日老夫妻が始めて一等汽車に乗ってまず京都まで行った。ここには妻からは姪にあたり、私からは従弟の娘にあたる、木村愛子というが居る、この夫は利明といって、これも同郷人だが、西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるのである。そこへ私どもは一泊して、その晩は京都の同郷人の歓迎会に出席した。この会は肉弾の著述で有名な桜井忠温氏が頭で、その他は木村氏の外皆生面であった。尤も中堀貞五郎氏はその祖父や父や兄なる人は私の旧知であったのだ。会の場所は四条烏丸の角の割烹店で京都風の鰻の蒲焼を食べたのもちょっと珍らしかった。この一泊した木村氏の宅は、因幡薬師堂の傍で、東本願寺はじき近くであったから、その翌日大谷句仏師を訪ねた。が折悪しく旅行の留守とかで粟津水棹氏が応接せられた。そして大谷家の表座敷から本堂や祖師堂等を案内せられたが、その宏壮なのに驚いた。例の信者の女の切髪の綱も見たが、私は凡てが髪の毛かと思っていたに、多分は苧糸で、それに髪の毛が絡んでいるばかりであった。なお枳殻きこく御殿も見たければ案内しようといわれたが、私は正午に大阪行の汽車に乗らねばならないから、厚意を謝して直に退出した。いよいよ時刻となったので、再び汽車に搭じて大阪へ着いた。ここの旅宿は同郷人の平井重則氏の知り合いの藤井旅館であった。今夜も同郷人の歓迎会が堂島の川向うの何とかいった大きな料理屋で催されたので、右の重則氏と太田正躬氏とが同伴せられて自動車で乗り着けた。この自動車は東京のよりも大分緩ゆっくりと馳せた。席上は京都よりも三倍以上の人で旧面識の人も多かった。そして同郷の松山人の外、同県で旧他藩に属する人々も加わって居られた事は、私の特に感謝する所である。私夫婦は明治元年に結婚したので本年はあたかも金婚式にあたるから、私がこの席上の挨拶にその事も披露して、新婚旅行ではなくて、旧婚旅行だと言って一座を笑わせた。この会以外に、私の弟の娘の須磨に居る市橋良子、及び神戸にいる従弟の子の交野国雄にも逢った。その翌日は山陽汽車に搭じて尾の道まで行って、何とかいう旅店に投じた。元来ならこの午後に汽船で郷里の高浜まで行くのだが、その頃高浜の石崎汽船の一艘が修繕中で、午後には便船がないということで、余儀なくここに一泊した。この地にも同郷人の福富恭礼氏が居たので、その案内で或る寺院等を見物したが、随分古い由緒のあるのもあった。翌日はいよいよ内海通いの汽船に乗った。この際同郷の伊与日々新聞社長柳原極堂氏から二人まで社員を差し越された。尤もこれは私の歓迎会の総代という事であった。そこで船中ではこの人々と種々話しをして、それに気を取られて、いわゆる瀬戸内海の島々の風景などは見ずにしまった。尤も私は船嫌いなのでこの航路の横潮にはいつも閉口するのであるから、立って風景を眺めるよりも寝ていて話しをする方が実際勝手もよかった訳もある。夕刻にいよいよ高浜へ着いた。ここには大勢の人に出迎われて、親戚もあれば旧友もあり、多方面の人々であったが、こんな時には哲学で悟を開いた私もやはり訳もなく嬉しい。その晩は従弟で医者である天岸一順の宅へ落着いた。この後ちはこの宅と娘婿の山路一遊の宅とあちらこちらと止宿して、二週間ばかりも滞在したのである。そこでその翌朝からは殆ど間断なく来訪者があって、久濶を話し合うのでいよいよ嬉しくも珍らしくも感じたが、また随分と疲労も覚えた事である。或る日は婿の一遊が松茸狩りに連れて行こうというので、城下からつい二里半ばかりの平井谷というへ汽車で行って、松茸を取った、尤もこれは、山主が予て囲って置いて、それを勝手に採らせて、採った松茸は秤で量って値を取るのである。だから別に捜さないでも松茸は一面に生えているので、いわゆる茸狩という興味はない。けれどもその取ったままの茸を山中の池の堤で石の竈で煮たり焼いたりして、酒を飲み飯を喰う、それだけはちょっと普通の家屋で喰うよりは興味があるのである。

いよいよ除幕式の日になったので、その日は電車で道後公園へ行ったが、妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられて、予てこの建碑に厚意を寄せられた人々はいずれも参会した。そして柳原極堂氏の建碑の始末に関する報告があり、旧温泉郡長の大道寺一善氏が私に対する頌賛的の演説があり、私もそれに答えかたがた厚く謝辞を述べて、この碑は私の如きものの記念というよりは、故旧に対して厚い同郷諸君の徳誼の表彰碑だといって置いた。それから直に県公会堂で大歓迎会を開いて下さるというので、それに赴いた。これは県庁の隣に新築されたもので、市の公会堂の萱町かやまちにあるものとは全く別なのである。私は始めて来たのだが、会場も広濶で数多の食卓が並んでいる。ここでも妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられたのである。そして県官の側では、内務部長や警察部長や、また県立諸学校長や、県会議長や、実業家の主なる人々も出席され、その他の知人や俳句上の同人も多く出席して下さった。この席では郷里の年長者である、旧農工銀行頭取の窪田節二郎氏が総代として私のために頌辞を述られ、次に警察部長大森吉五郎氏と、今一人とが同じく頌辞を述べられた。私も起って挨拶をして、一体私は理窟を調べる智識には、いささか得意もあるが、実務に当っては何らの働きもない、ただ偶然に藩から県と学務の責任者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっているが、人々の幇助を得て幸に大いなる失墜もなかった、しかるに今日かかる盛大なる歓迎を受くるというは望外の事である。が、これは全く私が七十一歳まで長寿を保ってまだ多少働いているという事に同情を寄せられたので、一面からいえば養老の恩典である、養老の典とすれば、私からいうと如何だが、また郷里の美事である、さすれば今後は、私以上に郷里のために力を致した老人に対してもこの典を挙げてもらいたい、そして私はいわゆる『自隗始』の心得でこの歓迎を受けて置くというような事を述べて置いた。それから多くの人が起って来て盃の取やりをされたが、そう酔払っても困るから、多くは吸物椀へ翻して、よき頃を見計って妻や親戚と共に退席した。

この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句を作ればそれで可いことだ、というような事を述べて置いた。なお敬晨会というはもっぱら老人のみを以て組織された俳句会で、これも予ての知り合であるから、そこへも出席した、この席中には私よりも年長者として、野間一雲、柳原尚山、真部春甫氏などがある。就中一雲氏は七十七歳で最近病臥して居られたが、私の帰省したのを喜んで病を押して出席された。その後私が帰京して間もなく氏の訃報に接したのは殊に悼む所である。この老人連は私の関係している日本及日本人の毎号へ出吟してくれらるる仲間なのだ。また藩主の祖先を祭った東雲神社の社務所で同県人の能楽を見た。これは毎年定期に法楽の催しがあるので、ちょうど高浜虚子氏及その兄池内信嘉氏も帰県していて一緒に見た。我が藩にはかつては禄を与えて召抱えた能楽師及囃し方も数々あって、藩主御覧の能楽も時々あったから、その名残を今も有志者の仲間で留めているのだ。就中崎山氏というが牛耳を執っていた。衣裳も旧藩主家のを譲ってもらったのだが、モウ古くなって、あるいは綻びをつづくっているのもあって、私も頗る感慨に打たれた。

私の松山滞在は僅の日数であるにかかわらず、来訪者の頻々たると共に揮毫を需むる人が非常に多かった。それでこの方面にはとても応じ切れぬので、あちらこちらと知人の宅へ逃げて行ってそこで断ることの出来ない分の揮毫をした。この数だけでも五百や六百はあったろう。そこでいよいよ出発する日に迫ったが、その前日においてやっと除幕式や歓迎会を開いてもらった人々に答礼としての訪問を終えた。が漏れたのも尠くない。出発の前夜も道後の船屋別館で、五十二銀行の石原頭取其他が送別宴を開いて下さった。またこの以前に、城下の南外れの亀の井という割烹店で二回までも或る方面の人の御馳走になった。私が主人となって、この亀の井で親戚と最も親しい婦人連を招待した事もある。なお広く郷地の人々を招待したいのであったが、何しろ貧乏な私は、金がないのでその志が遂げられず、御馳走の喰いっぱなしで這々ほうほうの態ていで引上げてしまった。また一つ遺憾なのは、久しぶり即ち十七年目に帰省したのだから一度は城山の絶頂に登って眺望をしたいと思ったが、それも出来ず、道後の公園さえ私の碑の建った場所を見たのみで、山上の陛下の御手植の松さえ見る事が出来ず、温泉の町も昼の光景は見る事が出来なかった。

前にもいった私の檀那寺正宗寺には、代々の墓もあるから、妻と共に参拝した上に、総ての仏に対する法事を営んで、僧侶と近い親戚とへ午餐を出した。ここの和尚も揮毫を求めたから禅宗でもあるし、かたがた例の達磨の句を全紙に書きなぐって与えて置いた。この寺は故子規居士の石碑もあるから、知る人は時々訪れるらしい。

こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿なる市橋俊之助が停車場に来ていて、流行感冒が猖獗で家族も臥蓐しているといったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰って来た。老夫婦は旅中で流行感冒に罹っては大変であるからだ。

いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、靖国神社の能楽堂で、能楽の催しがあった。これは『ホトトギス』の関係から広く文士連を招待されたので、見所も満員となった。演奏されたものは、『自然居士』と『花筐はながたみ』とで、甲は虚子氏がシテ、碧梧桐氏がワキであった。俳句の上では両氏は殆ど義絶的であったが、能楽となると、こんな風にやらるるのは、両氏においても美事なるのみならず、私には最も感謝する所である。『花筐』はこれも同郷の喜多流で師匠株になっている、金子亀五郎氏がシテで、ワキは同郷の黒田から妻を娶っている宝生新氏が勤めて下さった。この時も私夫婦は勿論、その頃出京していた山路の娘その他親族を招待してもらった。開会の詞は東洋協会理事の同県人門田正経氏が述べられて私もちょっと挨拶した。それから、この会は俳人その他の細君や娘達が、赤前垂れで模擬店を開いて下さったのも嬉しかった。またこの年に同郷文芸会でも、池内信嘉氏の監理していらるる能楽会の大座敷で、古稀の祝会を開いて下されて、特に私のために、池内氏が作られた文句で同郷の森律子氏が、仕舞をせられた。これも頗る賑々しい事であった。また私の監督していた寄宿舎の関係ある人々からは、前にいった建碑の外、祝賀会をも開いて下さって、これは白山の白山閣であった。この割烹店主はかつて寄宿舎の賄をしていた初見嘉四郎氏であったので、この人の発達といい、旧舎生中でも当時大蔵大臣の勝田主計氏なども出席せられたので、一座の親しみは勿論、私も非常に愉快であった。殊に店主の初見氏が白山芸者数名を余興として寄附されたのも深く感謝する所である。

以上の如き数々の祝賀会に対しては、私が自筆の『迎へしは古来稀なる春ぢやげな』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこうするうち、早数年を経たが、是非生前に何かの挨拶をせねばならぬのである。今一ついい落したが、俳人側においても中野三允さんいん氏が催しの祝賀会は、牛込の清風亭で開かれ、渡辺水巴すいは氏の曲水吟社で催しの会は上野の花山亭で、倉重禾刀氏の乙卯吟社で催しの会は飯倉の熊野神社で開かれまた南柯吟社の武田桜桃氏等の催しは、日本橋の常盤倶楽部であった。就中常盤倶楽部は殆ど二百名の出席者で私にとっては過分の盛況であった。なおこの外、雑誌、『曲水』『南柯』等では特に私のために記念祝賀号を発行して下さった。また林露竹氏等の千代田吟社からは唐木の書棚を贈られるし、その他の人々からも祝賀の記念物を数々貰ったのは私の名誉とする所である。しかるに私であるが、例の貧乏老人はどうか一番自分にも祝賀の大会を開いて、多くの厚意を受けた人々を招待したいと思うけれども、とても出来ぬ。そこで一夕僅に親族だけを芝浦の某亭(名を忘れた)に案内して小賀宴を開いた。これも旧藩主久松伯爵家の家令で居る弟の克家が多くの幇助をしてくれたことであった。

私の晩年の思い出は、まずこの古稀の祝賀会であって、その後は別に話す事もない。また私は前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する。幸に去年からそれを凌いで来て、これからは、いわゆる小寒大寒を凌がねばならぬ。果して凌げるかどうかは神ならぬ私は全く知らないのである。

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by li_japan | 2016-12-17 14:21 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)
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