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鳴雪自叙伝③ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

十八

この年から翌年頃へかけてが、私どもの俳句に熱狂していた盛りである。同人が互に往来して俳句を作り俳談を闘わすのみならず、例の各派を合した会なども度々催して、その頃は多くが書生であるから、家を持った私どもの仲間が順番に会席を引受けて、ちょっとした飯と酒とを出す事になっていた。就中宇和島人の二宮兄弟は熱心であったから、その弟の孤松氏宅や、その兄の素香氏を通して仲間に入った桜井静堂氏宅と、私宅では、頻繁に開会した。そうして子規氏は何といっても先覚で中心点ではあるが、この頃いうデモクラシー的に何ら先生顔もしない、そしてわれわれも先生らしくは扱っていないのである。これが我々中間の俳句の特色で、今でも新傾向派などが起ったにかかわらず、この態度は同様である。この頃であった、美術家で有名なる岡倉覚三氏の厳父が俳句をやられるので、私はその俳席へも出た。また牛込の宗匠たる岡本半翠氏は、予て私が文部省の参事官であった頃の筆生であったが、計らずもそれがいわゆる旧派の宗匠であった事を、同人中の土居藪鶯氏から聞いて、この関係からこの半翠氏宅の俳句会へも行く事になった。この会も或る特色は持っていて、従来の運座では或る一枚の紙に題を書いてそれに順次に句を書きつけて折り込んで行く例であったが、どうかすると前の作者の句を見て、自分の参考にするような嫌いもあった、そんな弊を防ぐために、一題ずつに状袋をこしらえて、それへ順次に句を書いた紙片を入れて廻す事にした。この方式は半翠氏門下の発明であったという事で、会名を袋組と称していた。私どもは頗るそれをよい方法だと感じたから、その後は伊藤松宇氏が始めた互選法と共に、この状袋廻しの事をも真似する事になった。その後この方法は久しく行われていたが、袋を順次に廻せば苦吟家に停滞される憂いがあるから、遂には席の中央へ各題の状袋を投げ出して置いて、出来た者がその中へ句を入れる事に改めた。そこで我々の俳句は子規の発達と共に発達したのでその後は半翠氏等の旧派連と出逢う機会もなかったが、遥か年すぎて、私が牛込方面を通っていたら、或る婦人がよび留めて、私は岡本の妻であるが、今先生の通られた事を夫が知って是非御面会したいというから立寄ってくれという、そこでその家へ這入って見ると、半翠氏は病床に横わっていて、聞けば肺病らしかった。それでも私と逢った事を喜んで種々の俳談を交した。なんだか心細く名残惜しいような顔をしていたが、際限もないから私はそこを辞して出た。その後一年ばかり経て、岡本の門人だという人が私の宅へ来て、我師はもう去年亡って、今年は一周忌であるから追悼の句を貰いたいといったので、私も以前の事を思い出して感慨にうたれたから一句作って与えて弔意を表して置いた事である。

右は後の話であるが、二十六年の末ごろ、私は旧藩主の久松伯爵家から旧藩事蹟取調という事を嘱托せられた。これは二十一年頃、先帝の思召しで、三条公と岩倉公との事蹟を調べて置くようにとの仰せがあったので、それと共に維新の際いわゆる勤王党であった旧藩主が、右の両家と共に事蹟を調べる事になって、その結果二百六十の旧藩主華族諸家もこの調べをする事に御沙汰があった。けれども元々持出す事件があるならば持出せというような事であったから、それを調べぬ家々も多かった。が、私の旧藩主久松伯爵家では熱心にそれを調べられる事になってとても家職では暇がないという事から特別に私に嘱托せられたのである。なお旧藩の頃家老から大参事を勤めてその後は立憲進歩党の老人株で居た鈴木重遠氏も先輩として加わる事になった。この調べをする事蹟の範囲はもっぱら、嘉永年間米国船の渡来より、明治の廃藩までというのであって、久松家から宮内省へ差出さるる事蹟はそれだけなのであるが、いっその事この機会に松山藩の出来た以後の二百数十年間の事をも調べて置きたいという事で、これも私どもの担任する所となった。そうして宮内省からの需めにかかるものを甲種とよび、その他の事蹟を乙種とよんで、共に材料を集める事になったが、残念な事にはかつてもいった如く廃藩の少し前に、三ノ丸が火災に罹って、藩庁の書類は悉皆焼失してしまった。そこでこの上は旧藩地について個人の家々に残っているものを探し出す外はない、尤もこれらも、明治の初年に久松家から当時の老人連に嘱托して旧藩代々の君侯はじめ臣下や人民の特種な事蹟を調べさせられたものが、松山叢談という三十巻ばかりのものになっている。けれども惜いかな昔し気質の老人の手に成ったので、君侯の事歴こそかなり詳いけれども、その他は多く個人的の特種な行為が列記されているというのみで、肝腎な藩の政治法令とか民間の農業商業其他社会方面の事は殆ど全く調べられていない。そんな事から、この度私が嘱托を受けて見ると、それらの洩れたるものをもなるべく調べたいと思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まずそこへ行ってこの度の取調の事件について充分に話もしていよいよ着手せしむる事になった。またこの取調のため、松山でも残りの老人二、三に嘱托者が出来た。けれども明治の初年と違って偶々あった材料も子孫の世となっては、反古にしてしまったものもあって、辛うじて集ったものも充分なものでなかった、がまずそれらを謄写するとか貰い受けるとかを、松山の掛員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行きは十三年に出京してから二度目であったが、段々と知人も物故して、今昔の感も尠くなかった。

この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、高浜虚子たかはまきょし氏が子規氏の帰省の機会から俳句を作り始めて、その後大学へ入る目的で京都の第三高等中学校の生徒となっていて、一層俳句を作って、二人ながら発達も速かだという事を、兼て子規氏から聞いていたので、私も懐しく思ってそれを高等中学校前の吉田町の下宿に訪ねたのであった。尤も汽車に乗る事を急いだので、僅か半日ばかり俳談をして、互に句作などをもしただけで、直に二氏と別れた。それからまた帰途にはこの京都へ立寄ったが、その時は二氏には逢わないで、これも同郷の俳人で岩崎宗白氏というを訪ねるためであった。この人は松山城下で錦雲舎という菓子屋の主人であったが、茶事も裏千家の高弟で、また俳句は大阪の芹舎の門人であったので、廃藩後は京都へ住居して水力応用の紡績機械を販売する、傍ら茶と俳諧の宗匠をも兼ねる事になった。そしてこの春頃東京へ来た際私の家には藩の頃出入した関係もあり、殊に俳句を始めた事を聞込だので、訪ねて来て、また私もその旅宿へ行った。そうして俳句についても談話を交したのみならずこの頃まで連句という事は、私どもの仲間でも余りせなかったのを、この宗白氏の口授でその方式を知り、終に席上で両吟をした事がある。そんな関係でこの松山の帰途には宗白氏を訪ね、翌日は氏を連れて嵐山辺へ遊んで、彼の二丁登れば大然閣へも詣でるし、少しばかり大堰川を舟で遡っても見た。その後帰京して後ちもこの人との俳事往復は時々する事になった。なお松山滞在中、宇都宮丹靖氏とか黒田青菱氏とかいう俳人にも出逢った。この丹靖氏は売卜業で八十以上の老人でもとよりいわゆる旧派である。青菱氏は松山では旧家と称する売薬商で、これも旧派たるは勿論だが、外に観世流の能楽も学んでいて、郷里では多くの人に知られていた。それから若手では村上霽月せいげつ氏もこの頃から俳句を始めて、これは以前に東京へ出て書生をしていた頃、私が学校の証人に立っていた関係から、子規氏よりも私に俳句を示されたのが始まりで、度々往復をしていたから、この人とも出逢って俳句を作り逢った事がある。

ツイいい洩らしたが、二十二年に私は三男和行を挙げた。

ここでちょっと話を挟むが、子規氏の俳句を始めた頃は主として芭蕉一派の俳句を標本としていたのだが、椎の友会席上で蕪村の句の巧いという話が出た。けれどもそれは俳句題叢に載っているものの外見ることが出来ない。蕪村句集を探したけれどもちょっと手に入らない、ないというといよいよ見たくなるので、終に我々が申し合って、もしも蕪村句集を最初に手に入れたものには賞を与えるという事を約した。間もなく片山桃雨氏が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出したので、我々から硯一面を賞として贈った。後で聞けば大野洒竹氏の手にあったのを桃雨氏が借りたのであったそうな。しかし蕪村の多くの俳句は相変わらず見る事が出来なかった。そこへ或る時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私どもは驚喜してそれを貸してくれといってやったが、霽月氏も現本を貸すのは惜しいと思ったか、別に自分が写したのをさし越した。そこで一番に私がそれを写す、子規氏も次に写す、なお椎の友連へもそれを見せた。そうこうしているうち、誰かが告げるに、芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるとの事であった。私は聞くとそのまま人力を雇って馳け付けたが、途中でももしそれが人手に渡りはせぬかと気遣いながら、その店へ行って聞くとまだあるといったので、実に天へも登る嬉しさであった。価もその頃では奮発であったが、二円で買い取って、帰ると直に披読し、その日に子規氏へも報知する、また椎の友会へも段々と告げて、我々一同がここに始めて久渇を医したのであった。が少数ながらも、最初に探し出したという賞は桃雨氏に帰していたから、私はもう賞を貰うことは出来なかった。けれどもその大得意は賞の有無を考えるどころではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした事である。ついでにいうが、蕪村句集を我々仲間がかく競い読むという事が、段々と俳人仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹氏が、私が得た少し後にまた一部を得たのを、堂の主人佐藤六石氏が乞い取って、それを再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したので、それを刷ったのが世間に出たから、いよいよ蕪村句集は誰れにも見られる事になった。私は今いった最初発見の句集を持っていた上に、別によい初刷本のあるという事を村幸から知らせて来たので、終に若干の価を増し前のと交換して、今も持っている。これには表題に上編と記してあって、月渓の跋文に蕪村の一周忌にこの集を出したのだが、なお翌年の忌には次編を出すといってある。それが下編に当るのであろうけれども終に発行せられずに終ったから、その後刷る版本には表題の上編という文字とこの跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の奥にあったという事で、まだ上木せない蕪村の句稿を、水落露石みずおちろせき氏が持ち出した。それが出版されたのが、現今も行われている蕪村句集の拾遺である。

今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入るのは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛に遣る事になって、終に子規氏の左右の腕となるに至った。そこで私は最初こそ子規氏が、無二の相手であったが、もうこの頃は碧、虚二氏が成り立ったので、自然に老人役という側へ廻って、世間からも子規氏と私は芭蕉と素堂の関係だといわるる事になった。けれども子規氏の宅の俳句会は勿論、蕪村の輪講など催す時は私は必ず出席して、一番にお喋しゃべりをしていた。尤も私は中途で俳句の作をやめていた事もあったが、間もなく死灰再び燃えて相替らず作る事になったのみならず、子規氏派の俳句の普及すると共に、私も段々と雑誌や新聞の選者を頼まれる事になった。就中ホトトギスは我々の機関であったために、選者たるのみならず、種々の文章なども出していた。

このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂やなぎはらきょくどう氏が久しく俳句を作っていて、また海南新聞の記者をも兼ねていたから、その印刷機械を利用して、子規氏の俳句を宣伝する雑誌を始めた。そうして子規の名の関係からホトトギスと称した。そこで子規氏始め、碧虚両氏や私もそれへ句や文章を出す事になっていたが、惜しいかな地方の隅で発行される雑誌は見るものが少ない。辛やっと二十号まで出した頃、極堂氏が、せめて三百部売れるなら収支が償って継続されるが、それだけ売れぬから、もう廃刊するといって来た。そこで虚子氏はそれなら自分が引受けて東京で発行して見ようといい出したが、子規氏はそうなると全く自分の直轄となるので、責任が重くなる、万一にも読者が少くて維持に困難を生じて廃刊にでもなると自分の恥辱だからといって、容易にそれを許さなかった。しかるに虚子氏は信ずる所があって、熱心にその継続実行を主張して、経済万端は凡て自分が引受けるといったので、子規氏も遂に承知する事になった。これがホトトギス第二巻の一号である。そうして予想以上にこのホトトギスは購読者も出来て、松山では三百を出し兼ねたものが、三千部も出る事になって、虚子氏が鼻を高くすると共に子規氏も大いに安心した。そうして子規氏はかような編輯上の意匠にも富んでいたから、購読者は益ますます喜んで見る事になったので兼て日本新聞やその他の各新聞で子規氏の俳風を広めていたが上に、この機関雑誌の広く行わるると共に益々我々が俳風は世間に普及する事になった。そこでこの頃小説で有名なる尾崎紅葉氏や、弁護士で有名なる角田竹冷氏や、御伽小説専門の巌谷小波いわやさざなみ氏や、法官の滝川愚仏氏、また森無黄むこう氏岡野知十おかのちじゅう氏などが連合して、一箇の俳社が出来た、此方でも俳声という雑誌を出して、後には卯杖と改称した。その頃伊藤松宇氏は久しく静岡地方の富士製紙会社に従事していたので、我々との交通も隔ていたが、再び出京して深川の倉庫会社に関係する事になったから、そこで元来なら、我々のホトトギス仲間へ加わるべきだが、どうかしたはずみで、秋声会の仲間となってしまった。が、相変らず私は勿論子規氏なども交際はしていたのである。

ホトトギス仲間では、少し以前に五百木飄亭氏が徴兵に出て兵隊生活をした関係から、同じ兵隊中で佐藤肋骨氏を俳句仲間に引入れ、また日本新聞に入って来た関係から佐藤紅緑石井露月の二氏も我々仲間へ加わった。また福田把栗はりつ氏も俳句を始めたが、これは漢詩の方が更に得意であった。

私がそもそも最初に雑誌の選者となったのは、文庫であって、これには選句の中へ簡単なる評語を挟んだので、世間では頗る受けたが、余りに口合的になるので、子規氏は機嫌がよくなかった。また太陽に同人の俳句を出す事も、その頃からで、それは編輯者の泉鏡花氏がよく私に俳句を見せた関係からである。その後岸上質軒きしがみしっけん氏等の人々が替わってこれが編輯を担任する事になってもやはり私の俳句欄はそのままにして終に今日までも継続している。なお万朝報も一週間一回の俳句欄の選者を托せらるる事になって、いわゆる旧派の老鼠堂永機えいき氏、この人が亡ってからは其角堂機一きかくどうきいち氏と共に引受けて、これも今に継続している。その他東京の新聞雑誌は段々と多く関係することになって、多少の出入変遷もあるが、今も新聞では万朝の外、読売新聞と中外商業新報、雑誌では大陽の[#「大陽の」はママ]外、二十種余に関係している。尤も文庫は早き以前に廃刊してしまったが、この雑誌は小国民の改題で、その頃はかようなものに載せる文学的のものは、俳句の外は凡て大家と認めらるる者に限る例であったのを、文庫のみは主としてまだ名を知られない若手の作でも、よい者は載せることにしたので、新進の青年は多くこの雑誌の下に集って、それが発達して今日の大家となっているものも少くないようだ。この事はこの文庫発行者の山県悌三郎やまがたていざぶろう氏の功といってよい。

二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心に需もとめるので、終に日本新聞社から特に派遣する事になった。が、金州方面に達した頃もう戦争も終りを告げていたので、この上はせめてもとまだ充分に服従せないで戦争をしている台湾の方面へ行こうと思って、下の関まで帰った時、再び大いに喀血して、とても台湾行きは出来なくなって、それから神戸の病院へ入ったが、一時は危篤という報もあったので、既に東京に来ていたその母刀自や、虚子氏は看病に赴いた。幸にその時は快方に向って、それから郷里の松山で保養する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ帰ったが、その頃から段々と行歩が不自由になって、多くは床に就いていた。尤も時々は車で外出する事もあったので、虚子氏の住んでいた猿楽町の宅へも稀には来た。或日の事子規氏が来た、闇汁会を開くからといって来たので、私も行ったが、闇汁とは、出席者が各々或る食物を買って来て、互に知らさずと厨の大鍋に投げ込む、それが煮え立った頃席上へ持ち出して、銘々の椀に入れて食う時、色々の物が出て来る、肉とか野菜とかの外、餅菓子やパンなども浮み出て来るので、いよいよ興を催おして思わず、飽食するにも及んだ。これが他の同人仲間にも伝わって、その頃はよく諸方で闇汁会を開いたものである。附ていうが、この闇汁は私の旧藩で昔から若いものが時々したもので、それは出席者が闇の夜に網を携えて野外の小川へ投じて、その網にかかったものを何か判らず取帰って鍋の中へうち込む、それから喰おうとすると、下駄の抜け歯が出て来る、蛙の死んだのが出て来る、その他さまざまの汚いものが出て来ても、それを構わず喰うのを勇気があると称して、互に興じ合ったものである。そんな野蛮な事も出来ないがやはりその名を取って、それに似た事をしたのが、即ち我々の闇汁会であった。

我々の俳句会は久しく子規氏の宅で開いていたが、氏の病もよくならず、余りに大勢の集るも如何という所から、終に虚子氏の猿楽町の宅へ移して、ここで開くことになった。またホトトギスの編輯や発行は最初より、虚子氏の宅であったが誰れか編輯等のよい手助けはないかと求むる際、子規氏が地方からの出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の数藤五城すどうごじょう氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺香墨こうぼく氏と、今一人は大阪の松瀬青々まつせせいせい氏であった。この青々氏は別に大した業務もなかったというので、それを呼び上せて、右のホトトギスの編輯を手伝わせる事になった。その後青々氏は他より一層発達して、殊に達作で、郭公一題二百句などという多作をして我々を驚かせたが余り長く東京には留らないで、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木月斗げっと氏なども名を出した。尤も露石氏は先年亡って、月斗氏は今も同人雑誌の主筆並に経営者となっている。また石井露月ろげつ氏は、元々医者になる目的で、その学費を弁ずるために日本新聞社に入っていたのであるから、その後開業免許を得ると直に郷里の秋田県へ帰って、女米木めめきの山中で医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者を療養するをこの上もない楽みとしている、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して、俳星という雑誌まで出していたが、この頃は心機一転したものか、それを出す事もやめてしまった。

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by li_japan | 2016-12-17 14:32 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)
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