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一言一会/那三届

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桐一葉 日当たりながら 落ちにけり/高浜虚子

————— 2016-12-26 —————

高明黎 0:01
杜甫 秋興(一)

玉露凋傷楓樹林
巫山巫峽氣蕭森
江間波浪兼天湧
寒上風雲接地陰
叢菊兩開佗日涙
孤舟一繋故園心
寒衣處處催刀尺
白帝城高急暮砧

玉露(ぎょくろ)凋傷(ちょうしょう)す 楓樹(ふうじゅ)の林(はやし)

巫山(ふざん) 巫峡(ふきょう) 気(き) 蕭森(しょうしん)たり

江間(こうかん)の波浪(はろう) 天(てん)を兼(かね)て湧(わ)き

寒上(さいじょう)の風雲(ふううん) 地(ち)に接(せっ)して陰(くも)る

叢菊(そうぎく)両(ふたた)び開(ひら)く 佗日(たじつ)の涙(なみだ)

孤舟(こしゅう)一(ひと)えに繋(つな)ぐ 故園(こえん)の心(こころ)

寒衣(かんい) 処処(しょしょ) 刀尺(とうしゃく)を催(うなが)し

白帝(はくてい) 城(しろ)高(たか)くして 暮砧(ぼちん)急(きゅう)なり

1226(一)中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり
【作者】高浜虚子
【季/季語】秋/きり一葉
【説明】初秋の明るい静けさの中を、大きなきりの葉が一枚、日の光を受けながらひらひらと落ちていった。秋の深まりをしみじみと感じている句。
【発音】桐一葉(きりひとは)/日当(ひあ)たりながら/落(お)ちにけり中

明るい静けさの中、風も無いのに桐(きり)の大きな葉の一枚が、日の光を浴びながらひらひらと梢(こずえ)から離れ、地面に落ちた。その後には何一つ動くものも無く、ただ秋への移ろいをしみじみと感じさせたことだ。

自然の一現象に焦点を当て写生したにとどまらず、その背後にある大自然の気息、衰微へと向かう自然の運行への深い詠嘆がこめられている。 「落ちにけり(落ちたことだ)」ときっぱりと言い切ることで、その詠嘆はいっそう印象的である。(秋・句切れなし)

※桐一葉(きりひとは)… 桐(きり)の葉が一枚落ちるのを見て、秋の訪れを知ること。中国の前漢時代の古典である「淮南子(えなんじ)」にある、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」に由来する。秋の季語。
※桐… 落葉広葉樹。高さ約10m。広卵形(こうらんけい)の葉は長い柄があり、団扇(うちわ)ほどの大きさがある。材は軽くて柔らかく、狂いが少ないので、家具、琴、下駄などに利用される。
※落ちにけり… 落ちたことだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※「落ちにけり」については、河東碧梧桐の「赤い椿白い椿と落ちにけり」を参照のこと。

※明治39年8月27日、句会「俳諧散心(はいかいさんしん)」における吟。

☆写真:桐の葉と実

☆桐の樹形

※高浜虚子(たかはまきょし)… 明治~昭和期の俳人・小説家。愛媛県松山市生まれ。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰。客観写生・花鳥諷詠を主張し、定型・季語を離れた新傾向俳句を推進する河東碧梧桐と激しく対立した。昭和34年(1959年)没。

・花鳥諷詠(かちょうふうえい)… 昭和初期に高浜虚子が唱えたホトトギス派の主張。四季の変化によって生ずる自然界の現象およびそれに伴う人事界の現象を無心に客観的に詠むのが俳句の根本義であるとするもの。

・「ホトトギス」… 俳句雑誌。明治30年(1897年)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主催。写生を主唱として今日に至る。夏目漱石の小説も掲載され、また、写生文の発達にも貢献した。

「一葉知秋」…いちようちしゅう…わずかな前兆や現象から、物事の本質や変化、衰退などを察知すること。
「一葉」は一枚の葉のこと。
「知秋」は秋がきたことを知る意。
一枚の葉が落ちるのを見て、秋の訪れを察知するということから。

「梧桐一葉」…ごどういちよう…物事が衰える前兆のこと。
「梧桐」は植物のあおぎりのこと。
あおぎりは他の木よりも早く葉が落ちるとされ、あおぎりの葉が一枚落ちるのを見て、秋が来ることを知るという意味から。

「桐葉知秋」…どうようちしゅう…わずかな前兆や現象から、物事の本質や衰退を察知すること。
「知秋」は秋が到来を知ること。
一枚の葉が落ちることから、秋の訪れを察知するということから。

一叶知秋…The fall of a single leaf ushers in the autumn.

中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

桐叶遮疏窗 凝露结霜送残阳 一落透秋凉

梧桐一叶而天下知秋_百度百科

Zheng Ju 0:21
中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

秋深桐叶黄 悠然无心遮斜阳 飘落向何方

木に子 1:12
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり
桐树的一枚树叶,一边晒太阳,一边往下落,秋天来了。
桐树一片叶 边晒太阳边下落 秋天来报到

云端 8:12
中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

残枝别疏桐 一叶悠然舞西风 映日秋色浓

还珠格格☆ 8:29
中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

午后残阳柔 桐叶伴风落河洲 便知又深秋

木に子 8:30
@云端 @碧空秋水 [强]
第一叶 也祘秋色浓? 秋将临! 啊,我明白了 你说最未叶!
いつの葉か 分からないけり なるほどね

云端 8:31
比较微妙

木に子 8:31
どちらも美しい風景

还珠格格☆ 8:32
@木に子 对呀!深秋开始落叶,到冬天落完了吧。[偷笑]

木に子 8:34
应该是吧。树叶总是扫不完的[呲牙]

云端 8:35
一叶桐 飘落舞西风 日色浓

木に子 8:45
甲曰く、秋の深まりをしみじみと感じている句。これは秋みたいね[呲牙]秋の句だから、正解であろう。
乙曰く、秋への移ろいをしみじみと感じさせたことだ。これは夏と秋の間みたい[呲牙]
丙曰く、一枚の葉が落ちることから、秋の訪れを察知するということから。これも夏みたい[呲牙]時間は8月27日だから、これこそ正解?

云端 8:49
@木に子 梧桐叶落比较晚的,记得今年是10月下旬左右,我还写了词[偷笑]

木に子 8:51
@高明黎 杜甫 秋興(一)、素晴らしい訳[强]@云端 虚子は8/27[呲牙]おそらく第一叶[呲牙]

云端 8:51
8月27日有点英年早逝的赶脚

木に子 8:52
はっはっは

高明黎 8:54
@云端 今天的汉诗是网上的[玫瑰]

@木に子 昨天的元稹的诗是自己翻译的。。。在网上没找到![调皮]

云端 9:07
@高明黎 感觉翻译得很高深[呲牙]

高明黎 9:16
@云端 那是行家的翻译[呲牙]

中学受験俳句秋篇No.14
桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

桐叶遮疏窗 凝露染黄送残阳 一落透秋凉

改一下。。。《霜》字不合适!

小草 10:04
睡起秋色无觅处,
一叶梧桐落门前。

Zheng Ju 10:15
好句!⬆️

还珠格格☆ 10:17
@高明黎 [强][强]桐叶映窗,残阳西照[呲牙]

@云端 理解相同[呲牙]



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# by li_japan | 2016-12-26 15:43 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

行水の 捨てどころなし 虫の声/上島鬼貫

————— 2016-12-25 —————

高明黎 0:08
1225(日)中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声
【作者】上島鬼貫
【季/季語】秋/虫の声
【説明】行水に使った水を捨てようと思うと、あそこにもここにも、いい声で虫が鳴いているので、水を捨てる場所がない。捨てれば虫の音を止めてしまうから。「行水」=たらいに水を張って浴びること。
【発音】行水(ぎょうずい)の/捨(す)てどころなし/虫(むし)の声(こえ)

图片2(可在附件中查看)

行水を済ませ、いざ水を捨てようとしが、折(おり)から虫の鳴き声があちらこちらで心地よく響(ひび)いている。虫の声が止(や)んでしまうのは惜(お)しいので、水の捨て場に困ってしまった。

美しい虫の声をそのまま心地よく響かせていたいと願う気持ちや、小さな生き物への優しさが伝わってくる。(秋・二句切れ)

※行水(ぎょうずい)… 湯や水を入れたたらいに入って、体の汗を洗い流すこと。夏の季語。
※捨てどころなし… 力強く言い切ることで、作者が水の捨て場に困っている様子がよく伝わってくる。
※虫… 特にマツムシ、スズムシなど秋に鳴く虫の総称。秋の季語。昆虫全般を指す夏の季語と思い込んでいる小学生が圧倒的に多いため、テストで頻出。
※虫の声… 虫の声が心地よく響き渡っていることだよ、と詠嘆を表している。

☆季節の境目に当たる風物には特に小学生にとっては判断に迷う季語が多く、テストで狙われやすいので注意。日がな一日机に向ってばかりいるのではなく、普段から季節の移り変わりやその風物にも関心を持ち、人と人との関わりを大切にし、視野を広げ、世の中の動きにも目を向け、考える姿勢が大切。

☆季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※季重なり… 一句の中に二つ以上季語が入っている場合、これを季重なりという。一句の主題が不鮮明になるので嫌うが、主旨がはっきりし一句が損なわれない時に用いられる。この場合、一句の主題となっているほうを季語とする。感動の集中を示す「切れ字」が用いられている場合は、その位置によって主題となる季語を判別することもできる。この句では感動の重点が置かれている「虫の声」を季語ととる。
※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※体言止め。

※この句は広く大衆に知られており、川柳にも、「鬼貫は夜中たらいを持ち歩き(夜になると多くの虫が鳴き騒ぐので、鬼貫は夜中になってもまだたらいを持ったまま庭の中をうろうろと歩き回るよ)」などと詠(よ)まれている。

※上島鬼貫(うえじまおにつら)… 江戸中期の俳人。伊丹の人。上島は「かみじま」「うえしま」とも読む。蕉門の俳人らや松尾芭蕉とも親交を持つ。洒脱で率直な句風が特色。元文三年(1738年)八月二日(新暦9月15日)没。享年77。

・蕉門(しょうもん)… 松尾芭蕉の門人、およびその門流。

中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声

行浴有远方 意惬泼水觅庭旁 虫叫促迷茫

没有灵感只好直译[尴尬]

以下,汉诗日译

【唐】元稹 白衣裳

雨濕輕塵隔院香,
玉人初著白衣裳。
半含惆悵閒看繡,
一朵梨花壓象床。

雨濕(あめじめり)の輕塵(けいじん) 院(にわ)を隔(へだて)て香る。

玉人(ぎょくじん) 初(はじ)めて著(き)る 白衣裳(はくいしょう)。

惆悵(ちゅうちょう) 半ば含(ふく)む 繡(にしき)を閑(しず)かに看(み)る。

梨花一朶(りかいちだ) 象牀(ぞうしょう)を壓(お)す。

今天是自己翻译的!

此诗,描写的一种淡雅,恬静,含蓄之美。让人觉得只能欣赏,不可接近的意境!

Zheng Ju 0:26
中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声

浴后欲出行 处处月色伴乐声 不忍惊秋虫

⬆️该诗18+

木に子 1:44
行水 - Wikipedia

图片3(可在附件中查看)

金ダライに入り、行水する子ども達

金属大桶里正在「行水」的孩子们

行水の 捨てどころなし 虫の声
用大盆洗澡后的,拨水处,没有,秋,虫鸣声动听
大木桶净身 不敢拨水弄动静 怕秋虫停鸣

小草 8:01
中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声

欲水流 虫鸣月色秋 浴水休

给上面各位大师点赞☆メリークリスマス☆

还珠格格☆ 8:27
中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声

浴罢晶莹肌 余香浊水难丢弃 秋虫鸣声齐

云端 9:51
@碧空秋水 晶莹肌,雪肌精[呲牙][强][强]

洗澡水往哪旮瘩扔呢,到处都是虫子叫。再琢磨改乘575[呲牙]

还珠格格☆ 9:57
说白了 不就是一盆 洗脚水[发呆]

云端 10:00
中学受験俳句秋篇No.13
行水の 捨てどころなし 虫の声

木桶浴秋风 洗罢剩水无处扔 只恐惊秋虫

@碧空秋水 金盆里 洗澡水难弃 秋虫迷[呲牙]

还珠格格☆ 10:03
@云端 金盆洗澡沐玉肌[呲牙]

云端 10:06
@碧空秋水 金盆沐浴雪肌精[呲牙]

木に子 16:54
今回の 一時帰国 感想あり
良い水も 空気が大事 あらためた
清空気 清水のお風呂 クリスマス
清净空气哉 行水不惊虫之声 东京渡圣诞
行水の 捨てどころある 贅沢や

高明黎 16:59
さっぱり分かりません。中国語の《行水》は、どういう意味でしょうか?

支離滅裂

大木桶净身 不敢泼(拨)水弄动静 怕秋虫停鸣…不如大白话加空格让人看得明白[惊讶]

木に子 17:10
@高明黎 いつもありがとうございます。気持ちよく笑いました。中文《行水》,让水行,即放水之意。ややこしくごめん。



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# by li_japan | 2016-12-25 15:43 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

君が手も まじるなるべし 花すすき/向井去来

————— 2016-12-24 —————

高明黎 0:05
1224(六)中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき
【作者】向井去来
【季/季語】秋/花すすき
【説明】秋の野は、一面にすすきが風にゆれている。友人が別れを惜しんで手をふっているが、その手がすすきの穂にまじって、いつまでも見送ってくれているようだ。「花すすき」=白い穂が出たすすき。
【発音】君(きみ)が手(て)も/まじるなるべし/花(はな)すすき

图片3(可在附件中查看)

一面の枯れすすきが風に静かになびいている秋の野で、見送ってくれた親しい友と別れた。互いに別れを惜しんでふりかえりつつ歩みを進めていると、やがて友人の振ってくれている手が、なびく枯れすすきの穂に混じり重なっていく。

秋の広野(ひろの)に立ち、友との別れを名残惜しむ心情がしみじみと詠(うた)われている。(秋・二句切れ)

※君が手も… あなたの(振る)手も。
※まじるなるべし… 混じっているのであろう、混じっているに違いない、と詠嘆が込められている。
※花薄(はなすすき)…穂の出たすすき。尾花。秋の季語。ちなみに「枯れすすき」「枯れ尾花」などは冬の季語なので注意。

※体言止め。

※元禄三年(1690年)、一時帰郷していた長崎から京都へと戻ろうとする折、蓑田卯七(みのだうしち:江戸前期の俳人。去来の甥(おい)。蕉門。)と日見峠(ひみとうげ)で別れた時の句。
※日見峠(ひみとうげ)… 江戸時代の長崎街道における難所。西の箱根とまで言われた。

※向井去来(むかいきょらい)… 江戸前期の俳人。長崎の人。松尾芭蕉の最も篤実な高弟。蕉門十哲(しょうもんじってつ:松尾芭蕉の弟子の中で特に優れた高弟10人)の一人。内藤丈草とともに関西蕉門の重鎮。句風は、篤実な性格により師風を守り、高雅清潔の品格をそなえ、平浅卑俗に陥らなかった。宝永元年(1704年)没。享年54。

・蕉門(しょうもん)… 松尾芭蕉の門人、およびその門流。

中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

分别君手远 风摇白微拟君伴 孤蓬意无返

送友人…李白
青山橫北郭
白水遶東城
此地一爲別
孤蓬萬里征
浮雲遊子意
落日故人情
揮手自茲去
蕭蕭班馬鳴

友人を送る…李白
青山(せいざん) 北郭(ほっかく)に横たわり
白水 東城(とうじょう)を遶(めぐ)る
此(こ)の地 一たび別れを為(な)し
孤蓬(こほう) 万里(ばんり)に征(ゆ)く
浮雲(ふうん) 遊子(ゆうし)の意(い)
落日(らくじつ) 故人(こじん)の情(じょう)
手を揮(ふる)ひて 茲(ここ)より去れば
肅肅(しょうしょう)として班馬(はんば)鳴(な)く

Zheng Ju 0:49
中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

别君在秋原 挥手白茅望无边 千里心相牵

木に子 6:16
君が手も まじるなるべし 花すすき
君之挥手也,混在…其中,茅草穗
逐渐远离去 还能看见君之手 挥在茅穗中

云端 7:21
中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

芒穗荡秋风 送君挥手上旅程 何处再相逢

还珠格格☆ 7:23
中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

故友送别时 回望摆手眼含泪 风摇芒穗低

@云端  今天的好伤感[调皮]

云端 7:27
@碧空秋水 离愁别恨的感觉[强][强][玫瑰]

你的手淹没在飘摇的芒穗里,这个意思不好翻~

还珠格格☆ 7:32
@云端 [强][强]友人手 淹没在飘摇 芒穗里

断句后 成为353 也很好[强][呲牙]

Zheng Ju 7:34
中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

辞君泗水边 玉臂白茅共摇曳 离泪洒征鞍

云端 7:35
友人挺白的[呲牙]

@碧空秋水 353简洁[强][强]

高明黎 7:37
@木に子 分かりやすい。[呲牙][强]もうすこし頑張ってください☆!

给各位统赞☆!

云端 7:38
挥挥手 心随芒穗走 好战友(流行歌曲版)

还珠格格☆ 7:45
送战友 挥臂芒中走 再回首(军歌版)

木に子 7:47
@高明黎 确实不好翻 谢主持

高明黎 7:48
@木に子 塵も積もれば山となる。すこしずつ頑張ってください。

木に子 7:49
@碧空秋水 
ta挥手 改为你挥手 挺上手

@高明黎 ありがとうございます

还珠格格☆ 8:27
@木に子 上手[呲牙][呲牙]

小草 10:40
中学受験俳句秋篇No.12
君が手も まじるなるべし 花すすき

与君挥挥手 不带走一朵芒穗 却被君带走

想起徐志摩。(意译了[偷笑],请包涵[抱拳])

高明黎 10:42
いいね!☆

確かに俳句は曖昧のところがあるので、その分想像させられる空間が沢山残っている。。。如実に訳すのがなかなか難しい。[尴尬]

木に子 19:10
クリスマス 霧霾(うまい)全然 うまくない
今年又聖诞 雾霾被称是美味 味道真不美
20161224 于北京天津

高明黎 19:15
@木に子 きちんと区切ってますね。[调皮][得意]

云端 19:25
俳句・汉俳(云端VS碧空秋水)

高明黎 19:33
@云端 @碧空秋水 [强][玫瑰]

云端 19:35
@高明黎 作业本[玫瑰][呲牙]

木に子 19:46
@云端 [强] @高明黎 [抱拳]
霧も霾も 積り積もれば 山となる
20161224 于天津

高明黎 19:48
@木に子 まさか、ここで使うなんて[呲牙][惊讶]

云端 19:48
雾霾山[大哭][尴尬][尴尬]

虎猫 19:52
图片1(可在附件中查看)

高明黎 19:55
@木に子 積り? 塵

还珠格格☆ 20:57
今年こそ ベリーハッピー クリスマス[爱心][爱心]

云端 21:03
聖誕よ タッキーを食べて ベリーラッキー

@碧空秋水 总片假名写俳句感觉有点怪[大哭]



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# by li_japan | 2016-12-24 15:42 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々/水原秋桜子

————— 2016-12-23 —————

高明黎 0:12
1223(五)中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々
【作者】水原秋桜子
【季/季語】秋/きつつき
【説明】きつつきがこつこつと木をつつく音が聞こえる。それに合わせるかのように、牧場の木々がしきりに葉を落としている。
【発音】きつつきや/落(お)ち葉(ば)をいそぐ/牧(まき)の木々(きぎ)

图片1(可在附件中查看)

すがすがしい晩秋の高原の牧場に、啄木鳥(きつつき)がせわしなく幹をつつく音が響いている。牧場の木々は、まるで冬支度を急いでいるかのように、あわただしく葉を散らしてゆく。

麓(ふもと)よりも一足早く訪れる高原牧場の晩秋風景を、聴覚と視覚でとらえ表現している。 「牧場」の静と「落ち葉」の動との対照、「キ音」の多用によるリズム感などから、過ぎゆく秋を惜しむ気持ちもが投影された、絵画的な印象の強い作品となっている。(秋・初句切れ)

※啄木鳥(きつつき)… 足と尾羽(おばね)を用いて木の幹に縦にとまり、するどいくちばしで木に穴をあけ、長い舌で虫を引き出して食べる。常に森林にすみ、木の幹に穴をあけて巣を作る。秋の季語。
※啄木鳥や… 啄木鳥の幹を叩く音が聞こえることだなあ、と詠嘆を表している。
※落ち葉… 冬の季語。「枯れ葉」とともに秋の季語であると思い込んでいる小学生が圧倒的に多く、テストで頻出。

☆落ち葉散りゆくさびしい晩秋の高原に、まるで冬への移り変わりを急かすかのようにせわしなく響きわたっている啄木鳥の幹を叩く音、そこに作者のしみじみとした思いや、過ぎゆく秋を惜しむ気持ちが込められているので、主題となる季語は「啄木鳥」となる。「啄木鳥」に切れ字の「や」が用いられていることも手がかりとなる。

☆季節の境目に当たる風物には特に小学生にとっては判断に迷う季語が多く、テストで狙われやすいので注意。日がな一日机に向ってばかりいるのではなく、普段から季節の移り変わりやその風物にも関心を持ち、人と人との関わりを大切にし、視野を広げ、世の中の動きにも目を向け、考える姿勢が大切。

☆季語と季節の特定、鑑賞や主題、切れ字の知識など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※季重なり… 一句の中に二つ以上季語が入っている場合、これを季重なりという。一句の主題が不鮮明になるので嫌うが、主旨がはっきりし一句が損なわれない時に用いられる。この場合、一句の主題となっているほうを季語とする。感動の集中を示す「切れ字」が用いられている場合は、その位置によって主題となる季語を判別することもできる。この句では感動の重点が置かれている「啄木鳥」を季語ととる。
※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※体言止め。

※急ぐ… 「木々」を人間に見立てた擬人法により、まるで意志的に落ち葉を急いでいるかのような慌(あわ)ただしさを感じさせている。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

※群馬県赤城山での吟。 「葛飾(かつしか)」(昭和5年)所収。

☆アカゲラ

※水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)… 大正・昭和の俳人。東京生まれ。東大医学部卒。医学博士。高野素十、阿波野青畝、山口誓子らとともに、名前の頭文字を取って「ホトトギス」の四Sと称された。近代的な明るさと都会人風の洗練された感覚、豊かな抒情を詠うその句風は、それまでの伝統的な俳句の境地を断然抜け出したものであった。しかし、その主情的な傾向は、「ホトトギス」の写実的傾向と一致せず、高浜虚子らと対立、昭和六年、「ホトトギス」を去る。のち「馬酔木」を主宰し、新興俳句の先駆者となる。昭和56年(1981年)没。享年89。

・「ホトトギス」… 俳句雑誌。明治30年(1897年)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主催。写生を主唱として今日に至る。夏目漱石の小説も掲載され、また、写生文の発達にも貢献した。

中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々

山有啄木鸟 锥树惊得秋叶掉 敲声牧林绕

Zheng Ju 0:22
中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々

啄木响叮咚 牧场众木闻秋声 落叶逐西风

云端 7:43
中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々

牧场树萧萧 殷勤叨虫啄木鸟 叶落秋风扫

承瑶(楊春) 8:44
中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々

啄木复丁丁 片片炫彩舞清风 牧场正秋浓

木に子 10:01
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々
啄木鸟 落叶 赶紧 牧场的树木
啄木备冬粮 树叶忙着回家乡 牧原森林旺

还珠格格☆ 10:22
1223(五)中学受験俳句秋篇No.11
きつつきや 落ち葉をいそぐ 牧の木々
【作者】水原秋桜子
【季/季語】秋/きつつき
白桦林中静 随风叶落啄木声 宛如木琴鸣

图片2(可在附件中查看)

原创
豪雨降り 旭美しき 小春日和(字余り)

一夜风雨急 朝阳明媚似春起 万物博生机

高明黎 23:07
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# by li_japan | 2016-12-23 15:39 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

马悦然:中国小诗与瑞典的俳句

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自从我六十多年前开始欣赏现代与当代中文的诗歌,我对1920年代的小诗非常感兴趣。我在大学教书,我一定要教一年级的学生汉语语音学和语法。学生们学了三个星期之后,我让他们背一些简单而容易懂的小诗。我相信这样做会鼓励他们学中文文学。我今天要讲的题目是《1920年代的中国小诗与瑞典诗人托马斯·特朗斯特罗姆的俳句》。这瑞典诗人的名字实在太长了。我从此就管他叫托马斯或者特翁吧。
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“小诗”这个名称比较好懂。小诗就是比一般的诗短。可是短到什么程度呢?

有的小诗只有一行,有的有两行,还有的有三行。很少有超过三行的诗有资格当小诗。

我相信在场的听众不一定都知道俳句到底是什么。

1920年代不少中国年轻人留学日本,在日本阅读过日本文学作品和译成日文的西方文学作品。俳句在日本文学史上占的地位很重要,留学日本的学者肯定见识过这种比较特殊的诗歌形式。可是据我所知,他们谁都没有把这种短诗带回中国去。五四运动时期抛弃了中国传统的诗歌形式,如绝句、律诗和长短句。偏爱自由诗的激进派的诗人,也许觉得俳句很严格的节奏是不合时代的。

日本的俳句跟西方的或者中文俳句有一个很大的区别。我们先看日本最有名的17世纪俳句大师芭蕉最有名的俳句:

Furu ike ya, kawazu tobikomu, mizu no oto.
古池,青蛙 跳进,水的声音
【编者注 日语原文和发音为:
古池や 蛙飛びこむ 水の音
ふるいけや かわずとびこむ みずのおと
 编者注】


日本的俳句包括十七个所谓/jion/字音,或者/onji/音字。日文一共有48个字音或jion。其中有五个元音/a i u e o/和一个元音后头的/-n/。其余的o字音都是一个辅音加一个元音,像/ka ki ku ke ko/。元音是短的或者长的。写长的元音需要两个字音。中文的“东京”包括两个音节,可是日语的Tokyu包括五个字音:to-u-ki-yo-u。【编者注 Tokyo的日语为Toukyou包括四个字音:to-u-kyo-u 编者注】

一首日本的俳句包括十七个写在一行的字音。那十七个字音分成三段5-7-5。芭蕉的俳句头一段,furu ike ya(古老的池塘呀),包括五个字音;第二段,kawazu tobikomu(青蛙跳进去),包括七个字音;第三段,mizu no oto(水的声音),包括五个字音。

芭蕉的俳句有两种中文译文。头一种用两个七言句:

古池冷落一片寂,忽闻青蛙跳水声。

这个译文不太好,无名的译者加了原文所没有的词儿,像“冷落一片寂”和“忽闻”。这样画蛇添足是不应该的。

第二种译文是一个押韵的小诗:

古池塘,青蛙跃入,水声响。

这种译文比头一种好得多,可是不应该押韵。日本的俳句绝不会押韵。【编者注 不理解“不应该”。译文在忠实于原意的条件下还能押韵,是否应该认为更好? 编者注】

西方的和中文的俳句应该包括分成三行的十七个音节。因此,日文的俳句比西方的俳句压缩得多。日本的俳句分成三段和西方的俳句分成三行不是偶然的。这种分析法又决定于节奏,又决定于语义。

五四运动初期是小诗的黄金时代。我最喜欢的小诗之一是郭绍虞先生这首反映性的诗(areflective poem):

云在天上, 人在地上, 影在水上, 影在云上。

我每次独自念这首诗,我会想到四川峨嵋山底下的水田。郭绍虞(1893—1984)的学术范围很宽,他在中国语言学,音韵学,文学批评史各方面的贡献很大。冰心女士(1900—1999)1923年出版的诗集《繁星》和《春水》显然受1913年获得诺贝尔文学奖的印度诗人泰戈尔(Rabindranath Tagore)的影响。除了冰心,还出现了很多独创力很强的小诗的大师,如俞平伯(1900—1990)、朱自清(1898—1948)、何植三(1899—1977)、郭绍虞和宗白华(1897—1986)、梁宗岱(1903—1983)、陈乃棠(1933-),和王统照(1897—1957),等等。

我家里所藏的最宝贵的诗集是俞平伯先生1925年呈给他已故的姐姐的一本题名为《忆》的诗集。这本诗集有朱自清的跋文和丰子恺的与这些诗非常意气相投的插图。作者的序文是1922年写的,那时作者才二十二岁。我从这个诗集只取一首诗:

骑着,就是马儿,
耍着,就是棒儿,
在草砖上拖着琅琅的
来的是我。

我刚给你们提的写小诗的诗人都成了有名望的作家。我现在愿意给你们介绍两位被遗忘的诗人。这两位没有登过高雅之堂的诗人分别是:四川的杨吉甫(1904—1962)和台湾的杨华(1906—1936)。两个诗人是“家门儿”(他们是同姓的)。他们的生活情况也很相似。两个都是小学老师,两人很穷,两人害的重病,两人坐了监牢。

杨吉甫是四川万县人。他1924年到北京去,上鲁迅在北京女大的课。他跟他的同乡朋友何其芳1931年编了一个文学杂志。同年得肺病回到四川。1927到1935年他在《万县日报》发表他的小诗。杨吉甫去世之后,他的寡妇要求何其芳出版她丈夫的诗选。出版于1977年用复写器印的《杨吉甫诗选》可能只印了几十本,送给诗人的亲戚和朋友。我1979年回成都去探亲时,杨吉甫的一位老朋友送了我一本。

杨华是台湾屏东县人。他的生活非常苦。他三十岁时自杀了。他生前发表了两部诗集,1927年出版的《小诗》和1932年出版的《心弦》。

五四运动时期与瑞典1940年代的文学有些相同的现象:对传统文学的否认的态度。当时的瑞典诗人大多数写的是自由诗。托马斯走他自己的路。他头一本诗集收十七首诗,一共包括九十一阕(stanzas)。其中十三阕用古代希腊所谓萨福诗律(Saphic metre),两阕用古代希腊阿尔凯(Alcaic metre),六十阕用所谓英国式的无韵诗(ta tám,ta tám,ta tám,ta tám,ta tám),其余的十六阕是自由诗。

我相信托马斯1950年代已经开始写俳句,可是他早期的俳句没有发表过。其中有一首让我联想到日本俳句的风格:

消失的步子 都已沉入了地板: 池底的落叶。

除了哲学与文学史,托马斯在大学学心理学。他1960年代在一个管教所当心理学的顾问。1959年托马斯拜访了一位当管教所的主任的朋友。参观了管教所之后,托马斯给他的主人寄了九首俳句。这些俳句等到2001年才发表。我在其中选两首:

逃犯给抓住。 他兜兜里装满了 金色的蘑菇。
少年喝了奶 安静地睡在牢房: 石头的母亲。


托马斯其余的俳句都发表在他最后的两部诗集中,《悲伤的凤尾船》(1996)与《巨大的谜语》(2004)。托马斯1990年中风之后主要写的是小诗和俳句。

很多1920年代的小诗像很多俳句一样可以分成三种意象,如梁宗岱的这首小诗:

七叶树啊, 你穿了红的衣裳嫁与谁呢?

我们再看朱自清先生最有名的小诗:

初夜的两枝遥遥的白烛光里,
我眼睁睁地瞅着,
一九二一年轻轻地过去了。

何植三先生所写的小诗也非常精彩:

田事忙了, 去,也是月, 回,也是月。

有时候何植三的小诗有一点像日本的俳句:

肩着臭的肥料, 想望着将来的稻香。

下一首诗是宗白华写的:

心中的宇宙 明月镜中的山河影。

以下有两首冰心的小诗:

我的心 孤舟似的 穿过了起伏不定的时间的海。
心灵的灯 在寂静中光明 在热闹中熄灭。

我们现在看托马斯的四首俳句:

我们得忍受 小号字体之草和 底层的笑声。
太阳将西下。 我们影子是巨人。 万物皆成影。
美丽的兰花。 油轮一一流过去。 天上的满月。
橡树和月亮。 光与沉默的星座。 寒冷的大海。


以上的小诗和俳句都可以分成三段的。

对于真话的信念

有的中国1920年代的小诗和托马斯有的俳句有一些相同的或者相似的主题:诗人们都坚持要说真话或者表达一种坚固的信念。杨吉甫有一首很简单的小诗:

今天的草堆是我点燃的。

肯定会有人认为这首诗简直没有诗意。可是我每次想到杨吉甫这首诗,就很感动。常常躺在病床上的诗人终于能到花园里去做扫叶子甚的,让他心里充满了乐趣和骄傲。诗人的乐趣和骄傲应该让读者惊讶:啊,你看!那么微不足道的事会叫诗人那么兴奋!真的,生活中看起来没有多大意义的事,其实非常可贵的。

有时,杨吉甫的真理感是很具体的:

那四颗明星,那四颗明星,
很好连成一个平行四边形。

野鸭飞起来, 双脚伸向后面。

诗人不会骗你!野鸭飞起来的时候,真的把两只脚伸向后面。

你们也得相信托马斯的话:

棕色的树叶 跟死海的圣经卷 一样的宝贵。
疯人图书馆 摆在书架的圣经 没有人阅读。


有的小诗会叙述自然界的动静和普通的好像没有很深意义的生活里的事件:

我们先看杨吉甫先生的几首诗:

鸭子归家的时候
她又提着便壶到菜园去。
天要黑的时候,
弟弟赶着鸭儿回来。
田角的牛儿
懒懒地在嚼着。
农人们吃烟去了。
母狗生了狗儿,
侄儿天天去看。
墨水瓶开了,
猫儿赶快来闻。

看托马斯的几首俳句:

啊,一对蜻蜓 紧紧地连起来的 嘶一声飞过。
黑白的喜鹊 固执地跑来跑去 横穿过田野。


有的小诗的主题跟传统绝句的主题很相似。下一首是王统照写的:

花影瘦在架上,
人影瘦在床上,
是三月末日了,
独有个黄莺在枝上鸣着。

何植三的小诗中也可以找到传统绝句的回音:

穿过了枫林 恍惚的见了一个影啊。
我道是只蝴蝶, 原来是片落叶。

下一首诗陈乃棠写的:

鹅黄的小花,
探头在茸茸的细草之上,
是招蝴蝶归来呀!

我们再看梁宗岱的一首小诗:

像老尼一般,黄昏
又从苍古的修道院
暗淡地迟迟地行近了。

杨华和杨吉甫的诗虽然比较短,可是有时主题上有一点像唐朝的绝句。以下头两首是杨华写的:

人们看不见叶底的花,
已被一双蝴蝶先知道了。
人们散了后的秋千
闲挂着一轮明月。

第三首是杨吉甫写的:

燕子飞去了, 遗留的只是深秋。

我自己觉得托马斯的以下三首俳句的主题稍微有一点像绝句的主题:

阳台上的我 站在日光的笼里—— 像雨后的虹。
密雾中吟诗。 海上遥遥的渔船—— 海的战利品。
默行如细雨 迎接耳语的树叶。 听宫里的钟


有的小诗具有不同程度的戏剧性:杨吉甫:

农夫在田坎上找草帽, 脸都急得红了。

托马斯:

透骨的暴风 深夜里穿过房屋—— 魔鬼的名字。
古怪的松树 在这悲哀的湿地。 永久的永久。
山上的陡坡 燃烧的太阳底下 羊群嚼火焰。
阳光的驯鹿。 苍蝇殷勤把影子 缝定在地上。
啊,紫藤,紫藤 从柏油里站起来 正像个乞丐。


托马斯的俳句有时让我联想到禅宗的小诗(偈):

阳光的狗 链牵着路旁的树木。 有人叫我么?

这首诗的头两行容有两个非常奇妙的隐喻,这种隐喻是托马斯的风格的特点。日本的俳句不允许用隐喻。我一个朋友,一位日本的学者,读了译成日文的托马斯的俳句后非常惊讶地说:“啊,托马斯的隐喻给日文俳句赋予了一种新的活力!”

我最后让你们念托马斯的两首俳句:

顿时的觉悟。 一颗老的苹果树。 大海靠近了。
人形的飞鸟。 苹果树已开过花。 巨大的谜语。


托马斯晚期的诗,有的不好懂。你们要是问我最后的两首诗有什么主题,我只能回答:

巨大的谜语!

【编者注 源自观察者。一部訂正。文中的与此相同括弧中的内容也是。 编者注】
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# by li_japan | 2016-12-22 21:42 | Comments(0)

菊の香や 奈良には古き 仏たち/松尾芭蕉

————— 2016-12-22 —————

高明黎 0:12
1222(四)中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち
【作者】松尾芭蕉
【季/季語】秋/菊の香
【説明】菊の香がただよう奈良のまち。その香りの中に古い仏像たちがひっそりとたたずんでいる。
【発音】菊(きく)の香(か)や/奈良(なら)には古(ふる)き/仏(ほとけ)たち

木に子 7:14
秋九月、訪れた奈良を歩いていると、ちょうど花の季節を迎えた菊が、そのゆかしい香りを漂(ただよ)わせていた。この奥ゆかしい都の寺々には、古くから伝えられる仏様たちが、静かな微笑をたたえながら香(かぐわ)しい菊の香の中で鎮(しず)まっておられることだ。

菊の香、奈良、古き仏という微妙に異なる印象を含む三つの言葉を取り合わせ、それらが醸(かも)し出す微妙な調和によって、懐かしさや味わいを深めさせている。(秋・初句切れ)

※菊の香(きくのか)… 菊の香り。秋の季語。
※菊の香や… 菊のよい香りがすることだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※体言止め。

※仏たち… 擬人法。「仏様たち」と仏像を人のようにたとえ、尊びとともに親しみを込めて表している。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

※元禄七年(1694年)九月九日、菊の節句(重陽の節句)、奈良の各寺参拝の折の吟。芭蕉逝去の約1ヶ月前、51歳の時の作。「笈(おい)日記」所収。

※松尾芭蕉(まつおばしょう)… 江戸前期の俳人。伊賀上野の人。江戸深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風(しょうふう)を開拓。各地への旅を通じて、不易流行(ふえきりゅうこう)の思想を形成し、俳諧を文芸的に高めた。「おくのほそ道」「野ざらし紀行」「更級日記」「笈の小文」など。元禄七年(1694年)十月十二日(新暦11月28日)没。享年51。

・蕉風(しょうふう)… 松尾芭蕉およびその門流の信奉する俳風。美的理念としては、幽玄、閑寂を重んじ、さび・しおり・細み・軽みを尊ぶ。

・不易流行(ふえきりゅうこう)… 蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧には不易(時代を超えて変わらないこと)の句と流行の句とがあるが、流行の句も時代を超えて人々に訴えればそれは不易の句であり、ともに俳諧の本質を究めることから生じ、根本は一つであるという論。

※「おくのほそ道」… 松尾芭蕉の俳文紀行。元禄二年(1689年)3月末江戸を出発し、東北・北陸を巡り美濃大垣(岐阜県)に至る約150日間、およそ六百里(約2400㎞)の旅日記。洗練された俳文・俳句は芭蕉芸術の至境を示している。元禄七年(1694年)頃成立。元禄十五年(1702年)刊。芭蕉自身は「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」という表記を好んで用いていた。原文の題名もこの表記となっている。

菊の香や 奈良には古き 仏たち
秋 菊 香 味 奈良 古 佛像 笑容
秋菊香味飘 微笑佛像立成群 古色奈良城

Zheng Ju 7:21
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

古都漂菊香 古寺古庙古奈良 佛像一尊尊

木に子 7:26
图片7(可在附件中查看)

云端 7:34
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

九月菊花黄 隐隐幽香飘奈良 古佛披秋光

Zheng Ju 7:41
@云端 佛字也加古会好些?

中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

古都菊花香 古寺古庙古奈良 古佛沐秋光

木に子 7:44
@云端 @Zheng Ju [强]
原两韵 再凑一个学 就押韵
秋味飘菊香 佛尊微笑历苍桑 古色城奈良

LiOu 7:46
@高明黎 仏の発音は「ほとけ」だね?

高明黎 7:46
@醉呓 有り難うございます。

1222(四)中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち
【作者】松尾芭蕉
【季/季語】秋/菊の香
【説明】菊の香がただよう奈良のまち。その香りの中に古い仏像たちがひっそりとたたずんでいる。
【発音】菊(きく)の香(か)や/奈良(なら)には古(ふる)き/仏(ほとけ)たち

木に子 7:48
@醉呓 [抱拳]对不起

还珠格格☆ 7:51
我一直以为ほとけ是魂儿[偷笑]

木に子 7:52
あれはたましい

役に立つ 機械翻訳 当てなれず

高明黎 7:58
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

露菊凝香氛 长卧奈良不知辰 古佛醉花荫

LiOu 8:01
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

菊飘香 众佛在奈良 历沧桑

木に子 8:01
@高明黎 [强][强]
わざわざと 違う韻かな 凄い事

@醉呓 更简练[强]

LiOu 8:03
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

菊飘香 沧桑古奈良 佛跳墙[微笑][调皮][呲牙]

浮雲 8:03
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

菊香漂四方、名城奈良味满堂 古魂正付体

木に子 8:05
@醉呓 [发呆]
如何跳? 有什么说法?请明示

云端 8:06
统一点赞☆☆☆!尤其赞醉花阴[呲牙]

佛跳墙[色][色]

木に子 8:08
佛跳墙(闽菜著名菜品)_百度百科

云端 8:09
小鹿たち 奈良の町なら 安心哉

小鹿生奈良 古都沉稳人和祥 安心街上逛

ダジャレ2号

木に子 8:10
@醉呓 
佛跳墙 是个八义词 您哪个?

@云端 期待第三号
在哪儿? 奈良和なら 找到了!

云端 8:17
@木に子 说多了会成オヤジ[呲牙]

LiOu 8:19
@木に子 日本没有真和尚,喝酒吃肉搂姑娘。都是隔壁那老王,你说跳墙不跳墙?

木に子 8:19
@云端 [玫瑰]
はっはっは それだけではね なれこない

还珠格格☆ 8:20
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

香 浓艳菊花满路旁 佛光照 古寺奈良乡

木に子 8:20
@醉呓 なるほど[胜利]

还珠格格☆ 8:22
@木に子 佛跳墙 众说纷纭意 是老王[呲牙]

浮雲 8:22
日本和尚可以堂堂正正结婚生子,当然了也可以偷情,找小三。花和尚来了☆

承瑶(楊春) 8:22
中学受験俳句秋篇No.10
菊の香や 奈良には古き 仏たち

秋高菊正香 千年奈良俱盈芳 微笑浴佛光

云端 8:24
@承瑶(楊春) 微笑浴佛光,感人入境[强][强][呲牙]

还珠格格☆ 8:25
ほとけ様 解けた心 成仏

ダジャレ[调皮]

云端 8:27
@碧空秋水 突然变冷[呲牙][呲牙][强][强]

咱俩冷风机啊[偷笑]

还珠格格☆ 8:28
@云端 没人吹,只好自己吹了[呲牙]

木に子 8:29
@云端 @碧空秋水 はや! @承瑶(楊春) 女らしい

承瑶(楊春) 8:30
在群里还能学日语,好棒☆

每日出勤路最佳伴侣[愉快][愉快]

还珠格格☆ 8:32
@承瑶(楊春) 同是通勤沦落人[握手][握手]

木に子 9:55
孤独是关上灯 与发光的灵魂为伴
灯を消して 光る魂 共孤独

雪迷 11:48
其实真没那么复杂:奈良古佛醉新菊

木に子 11:59
@碧空秋水 对不起了。旁边群的学习内容 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-22&p=i @雪迷 所言极是。俳句原型源于一句七言。

承瑶(楊春) 12:11
@雪迷 一新一古,相得益彰[强]

云端 12:13
@雪迷 醉的是菊正宗[色]

雪迷 12:14
佛醉花香我迷酒 @云端 

承瑶(楊春) 12:19
见空不迷空 纷繁万象在其中 我自一身轻[呲牙]

木に子 12:27
马悦然:中国小诗与瑞典的俳句 : 一言一会/那三届

供大家学习 虽多处不敢苟同。 昨晚刚编成

Zheng Ju 12:34
想知道出处:俳句原型源于一句七言。

晓寜 12:57
该收银纸了[偷笑]@木に子 

木に子 13:04
後ほど

浮雲 14:13
好,在多媒体群主领导下,??往直前!

木に子 14:29
@浮雲 [抱拳]
八仙八雅 浪迹天涯
琴棋书画 诗酒花茶
口琴象棋 俳书彩画
胡诗汾酒 山花沫茶

小草 20:07
@木に子 八大仙,凄い☆哪八大呢?

木に子~~木子李,李白也[偷笑]

...



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# by li_japan | 2016-12-22 15:39 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺/正岡子規

————— 2016-12-21 —————

木に子 0:34
1221(三)中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺
【作者】正岡子規
【季/季語】秋/柿
【説明】法隆寺の門前の茶店で休んだ。そこで柿を食べていると、寺から鐘の音がひびいてきた。あたりの静けさとあいまって、秋ののどかさが感じられる。「法隆寺」=聖徳太子が建立した、現存する世界最古の木造建築物。
【発音】柿(かき)くえば/鐘(かね)がなるなり/法隆寺(ほうりゅうじ)

图片4(可在附件中查看)

法隆寺を訪れ、その門前の茶店で休み、柿を食べて秋の古都の風情を楽しんでいたところ、折しも法隆寺の澄んだ鐘の音が、静かにゴーン… と辺りに鳴り渡ったことだ。

歴史ある法隆寺の静かな秋のたたずまい、柿を食べながら味わうすがすがしくのどかな古都の風情が、いっそう趣(おもむ)き深く感じられてくる。(秋・二句切れ)

※柿(かき)… 秋の季語。
※食へば… 食べていたら。「もし食べれば」という仮定の意味ではない。
※鳴るなり… 鳴ったことだよ、と詠嘆を表している。
※法隆寺(ほうりゅうじ)… 奈良県生駒郡斑鳩町にある世界最古の木造建築。別名は斑鳩寺(いかるがでら)。607年、用明天皇の命により聖徳太子が創建。1949年1月、1993年、ユネスコの世界遺産に登録された。

※体言止め。

☆季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※前書きに「法隆寺の茶店に憩(いこ)ひて」とある。

※明治28年(1895年)の作。「寒山落木(かんざんらくぼく)」所収。

※歴史学者の直木孝次郎の考証によれば、実際は子規(しき)が明治二十八年十月、奈良東大寺の近くにあった旅館「角定(かどさだ):のち対山楼(たいざんろう)」に投宿した際、夕食後に名物の御所柿(ごしょがき)を旅館の下女にむいてもらって食べている折に鳴った東大寺の鐘の音が深く印象に残り、後日(雨天)、法隆寺を訪れてのち、両体験を結びつけてこの句が創作されたものだという。子規は写生句の主唱者ではあったが、ただ事実どおりの体験のみに固執していたわけではなかったのかもしれない。

また、この句が発表される2か月ほど前に、子規の親友である夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句を「海南新聞」に発表しているが、これについて坪内稔典(つぼうちとしのり)は、「子規の代表句は、漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵(ぐだぶつあん:漱石の松山での住まい)における二人の友情の結晶だった」と述べている。

※正岡子規(まさおかしき)… 俳人・歌人。愛媛県松山生まれ。短歌・俳句、写生文による文章革新運動を推進、「ホトトギス」を創刊。二十代の若さより肺結核、脊椎(せきつい)カリエスに冒(おか)され、永く闘病生活を送る。明治35年(1902年)没。享年34。

・「ホトトギス」… 俳句雑誌。明治30年(1897年)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主催。写生を主唱として今日に至る。夏目漱石の小説も掲載され、また、写生文の発達にも貢献した。

Zheng Ju 7:38
中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

荒店尝新柿 秋风阵阵传凉意 钟鸣法隆寺

承瑶(楊春) 7:50
中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

秋馆柿新尝 法隆寺内起苍黄 彻宇钟声荡

高明黎 7:50
1221(三)中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

柿霜化津甜 寂寂钟声秋日闲 法隆寺睡仙

还珠格格☆ 7:57
1221(三)中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

无核蜜柿甜 舒心宁静法隆寺 钟声传悠远

承瑶(楊春) 8:01
大家的词句恬静悠远,惬意啊[愉快]

云端 8:08
1221(三)中学受験俳句秋篇No.09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

茶店品新柿 西风拂面钟声起 苍茫法隆寺

还珠格格☆ 8:13
个中情趣雅赏[强][鼓掌][鼓掌]

云端 8:20
鹿がくる 煎餅足らぬ 法隆寺

梅花鹿群嗨 手里鹿饼不够掰
法隆寺散财

承瑶(楊春) 8:21
话说那些小鹿真有些吓人,直接就抢的

云端 8:22
我手里一张彩色打印的地图都被抢去吃了[呲牙]

承瑶(楊春) 8:26
真是不挑食啊[偷笑]

还珠格格☆ 8:27
奈良にしか 大勢な鹿 寄ってくる[呲牙]

seiji☆☆morisako 8:30
しか…鹿、うまくかけてますね[呲牙]

云端 8:38
@碧空秋水 ダジャレ[强][玫瑰][玫瑰]

木に子 11:04
@高明黎 各位,近况报告[抱拳],
介護なり 社会福利院 九十四
介护实习中 北京社会福利院 九十四岁翁
8

高明黎 11:13
@木に子 木子大師の便りは何よりです。[愉快]…有り難うございます。[呲牙]

木に子 19:39
先补昨天的 晋话长绿为扁担 其它为蚂蚱
小时捉蚂蚱 穿到一根米米上 家鸡的美食
米米者 高粱杆之皮 一细条
点根火柴棒 烧々蚂蚱的大腿 儿时之美味

街道を キチキチととぶ ばったかな
马路上 咯吱咯吱地 飞扁担
农村马路上 咯吱咯吱地飞过 一匹大扁担

雪迷 19:41
那叫扁担勾

木に子 19:42
没有勾字

扁担蚂蚱之简称

雪迷 19:44
扁担勾比蚂蚱大很可,绿色的,蚂蚱小,黄色的

木に子 19:50
是的。绿的短的,山西榆次也叫蚂蚱

扁担蚂蚱

说蝗虫 论下肉 蚂蚱少 扁担多 鸡更爱吃

柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺
吃柿子 忽听钟声响 法隆寺
正在吃柿子 忽然听到钟声响 奈良法隆寺

承瑶(楊春) 22:07
够直白[呲牙]

雪迷 22:07
太直白了

无韵无格律

小草 22:08
白开水[偷笑]

木に子 22:09
无添加味,原汁原味

统一点赞☆!

LiOu 22:16
@木に子 群主的翻译比Google还Google,加点儿雾霾感可好?[调皮][呲牙]

木に子 22:22
@醉呓 兄 雾霾不能加 只能吸[呲牙]

云端 22:36
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

小口啃柿着 忽然听到钟声敲 法隆寺挺好

还珠格格☆ 22:36
@木に子 素描版[偷笑][偷笑]

云端 22:36
直白版

图片5(可在附件中查看)

还珠格格☆ 22:41
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

柿子甜 法隆寺塔尖 钟声远

木に子 22:49
@云端 翡翠饺子[强]绿色用了什么?

还珠格格☆ 22:51
翡翠皮儿俊 三鲜馅儿味美纯 丽姑婆儿饪[色][色][色]

雪迷 22:51
抹茶和面

@木に子 我怎么记得你包过

木に子 22:52
啊,我知道有两种方法,中国用菠菜,日本用抹茶,我都做过。是的,很好吃

@碧空秋水 
当时在茶乡 用最好的新抹茶 味道非常香

中国用菠菜 翡翠饺子两作法 日本用抹茶

LiOu 23:09
柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

霜后柿透红 纤指翻飞剥皮中 法隆起钟声

浮雲 23:18
群主群主你可知道
大白话尽情向外抛
子乎哲也太麻烦
唐诗宋词写难讨
今天冬至不期至
蚂蚱馅水饺仍最高
无人来吃怎么办
这个创意不太好
流水落花今日去
群主再整点花样我们要
要!要!要!

群主群主你可知道
大白话尽情向外抛
子乎哲也太麻烦
唐诗宋词写难讨
今天冬至不期至
蚂蚱馅水饺仍最高
无人来吃怎么办
这个创意不太好
流水落花今日去
群主再整点花样我们要
要!要!要!

柿くえば 鐘がなるなり 法隆寺

柿子树上落,砸鐘到底为什么 法隆寺代过☆

LiOu 23:30
图片6(可在附件中查看)

京城浓雾霾 高朋满座尽开怀 为了这道菜 ?[流汗]



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# by li_japan | 2016-12-21 15:34 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

毎日一言(2016年12月16-20日)

————— 2016-12-16 —————

木に子 0:12
图片6(可在附件中查看)

我们走得太快,灵魂都跟不上了。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-16&p=i

Zheng Ju 0:40
我们走得太快,灵魂都跟不上了。

歩くの速すぎた、魂が付いて来れない。

左藝 0:58
私達のスピードが速すぎて、魂も付いてこれないようだ

私達行くのが速すぎて、魂も付いてこれないようだ

哪个更好些?[呲牙]

行く☆歩く

大傑 5:57
私達は歩くのが速すぎて、魂さえついてこられないのです。

ボくたちは歩くのが速すぎて、魂さえついてこられないのだ。

木に子 7:02
据说,有一个原始的古老部落,他们长期迁徙,居无定所,却有一个坚持不懈的习惯,每走两天就停下来休息一天,世代不变。有人不解,年迈的部落首领解释说,我们的脚步走得太快,灵魂跟不上,走两天歇一天,就是为了等待我们的灵魂。
这句话的意思是做事做人要踏实一点,给自己留点思考问题的时间,不要太浮躁。

左藝 7:30
图片7(可在附件中查看)

高明黎 7:32
歩くの早すぎた?

左藝 7:33
今日ね〜[得意]

高明黎 7:37
誰が見ても、大傑 さんの訳がベストかと思って[惊讶][呲牙]

駄洒落なら、ごめん☆

左藝 12:57
☆今天的一句

我们走得太快,灵魂都跟不上了

私達(わたしたち)歩(ある)くの速(はや)すぎて、魂(たましい)も付(つ)いてこれないようだ
老师们的译文:
☆歩くの速すぎた、魂が付いて来れない
☆ボくたちは歩くのが速すぎて、魂※さえついてこられないのだ。
※さえ~连…都…
感觉☆更有意境,真不错☆

「つく」的「つ」用什么汉字一直都是很让人挠头的

付く:離れない状態になる、加わる

就く:役目を担当する、何かを始める

着く:到着する、体がその場所に届く

今日の「ついていく」の「つく」は、辞書(国語大辞典・小学館)によると、「付いていく」が適当のようです。

☆找到白岩松的一篇文章:

《中国人走得太远太快》
……
然而大家还是都忙,都不知为何显得格外着急,于是,都在抢。在街上,红绿灯前,时常见到红灯时太多的人抢着穿过去,可到了对面,又停下来,等同伴,原来他也没什么急事,就是一定要抢,这已成为我们太多人的一种习惯。
在这样的氛围中,中国人似乎已失去了耐性,别说让生活慢下来,能完整看完一本书的人还剩多少?过去人们有空写信、写日记,后来变成短信、博客,到现在已是微博,140个字内要完成表达,沟通与交流都变得一短再短。甚至140个字都嫌长,很多人只看标题,就有了“标题党”。那么,下一步呢?
对此,一位老人说得好:人生的终点都一样,谁都躲不开,慢,都觉得快,可中国人怎么显得那么着急地往终点跑? 在墨西哥,有一个离我们很远却又很近的寓言。
一群人急匆匆地赶路,突然,一个人停了下来。旁边的人很奇怪:为什么不走了?
停下的人一笑:走得太快,灵魂落在了后面,我要等等它。
是啊,我们都走得太快。然而,谁又打算停下来等一等呢?
如果走得太远,会不会忘了当初为什么出发?

☆白岩松,何许人也?您从百度中可以很轻松地找到他

~感叹!不为别的,只是觉得如果在那“要命”的年代说这些“要命”的话,是不是就真的要了命了啊…现如今的社会,真好

还想说一句,自己在日本25年,熬过了青春,熬成了白头。最最讨厌的就是街头听到指着国人称“中国人”(ちゅうごくじん)的,怎么听怎么像是一种被歧视。感觉称国人为“中国の人”(ちゅうごくのひと”才是比较相互尊重的。您怎么看呢?

关于最后,对?不对?想听听大家的☆

木に子 16:36
@左藝 三十数年前、覚えた日本語では、中国人の方

左藝 16:37
日语的“中国人”就是有一种違和感

木に子 16:41
@左藝 先生の勘が正しい。「日本人」がだめ、「日本人の方」が良い、と覚えさせられた

赤子心 17:24
中国の方です。




————— 2016-12-17 —————

木に子 0:14
图片1(可在附件中查看)

人这一生,无情的不是人,而是时间。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-17&p=i

高明黎 0:23
生涯で非情なのは、他人ではなく時間そのものである。

Zheng Ju 0:36
人这一生,无情的不是人,而是时间。

人の一生には、無情なのは人ではなく時間である。

左藝 9:57
图片2(可在附件中查看)

☆今天的一句

人这一生,无情的不是人,而是时间

人生(じんせい)の中(なか)、無情(むじょう)なのは人(ひと)ではなくて、時間(じかん)です

老师们的译文:
☆人の一生には、無情なのは人ではなく時間である
☆生涯で非情なのは、他人ではなく時間そのものである

☆时间,无情

不经意间
时间悄悄地溜走
是那样的无情
不过
还是剩下了一丝岁月的痕迹
还是留下了一点流年的相思

是谁把光阴折叠成诗?
是谁将流年歌唱成曲?
记忆,一段一段的
一直留在在心底

走在岁月的长廊
透过时间的窗
遥望远方,还记得吗?
哪一道风景是我们曾经留下的
哪一丝微风曾经抚摸过你
哪一缕阳光曾经温暖过自己

在光阴的步道
时而雀跃
时而稳健
时而蹒跚

停下脚步
沉思,凝望
不敢再回首

时间,是个讨厌的东西




————— 2016-12-18 —————

木に子 2:52
图片3(可在附件中查看)

淡如水,渺如烟,不相系,总相牵。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-18&p=i

高明黎 3:18
淡くて水の如し、渺茫として雲煙の如く。相関せずとも、いつも絡み合う。

Zheng Ju 8:43
淡如水,渺如烟,不相系,总相牵。

水のように淡く、煙のように軽い。束縛することなく、一生手を携わる。

左藝 8:44
水のように淡く、煙のように…

我刚刚写到烟[呲牙]不知道该怎么形容

高兴的是一样用的“ように”[呲牙][呲牙]

木に子 8:49
渺(びょう)は、10-11(1000億分の1)。-11は右上

清い水、白い煙、縛られず、繋がってる。

左藝 9:27
@木に子 渺,好像不那么白,有“茫”的意思吧…再想个好一点的[呲牙]

木に子 9:34
@左藝 ならば少し重くしよう
清い水、青い煙、縛られず、繋がってる。

蒲公瑛 9:42
渺如烟在这儿“軽い"と思います。

木に子 9:45
同感。小さいと考えたが、前後に合わない

清い水、軽い煙、縛られず、繋がってる。

流行の「浮き雲」はいかが?

いいかも

清い水、薄い雲、縛られず、繋がってる。

蒲公瑛 9:50
薄いも良いですね。

木に子 9:54
水と雲のように、縛られず、繋がってる

同じくH2O

水も、雲も、同じくH2O、繋がってる

左藝 10:11
淡い水、漂う煙、相関ないが、繋いでる

水のように淡い、煙りのように漂う、関わりがないが、何処かで繋ごう

高明黎 10:25
[呲牙][强][玫瑰]漂う

木に子 10:27
水のように淡く、雲のように漂う。縛りがないが、いつも繋がってる。

左藝 10:28
原句里没有云@木に子 

木に子 10:28
何が?

左藝 10:29
@高明黎 [拥抱][拥抱]喜欢老师给赞[愉快]

图片4(可在附件中查看)

“繋がってる”がいいなぁ〜[微笑]惜しい

Zheng Ju 12:21
牵,是牵手吧?“繋がってる”,和原文里的"系(ji)"意思更近。@左藝 

木に子 12:28
@Zheng Ju 您尽想美事了[呲牙]我想应该是牵挂

高明黎 12:30
@木に子 葡萄是酸的[呲牙][惊讶][调皮]

木に子 12:30
挨都挨不上 如何可以牵上手? 作梦倒可以[呲牙]

@高明黎 你又来起哄[呲牙]

高明黎 12:31
@木に子 根からのやじうま根性[呲牙][调皮][得意]

野次馬

木に子 12:32
原文的系,读ji4。如系鞋带

Zheng Ju 12:39
所以说系可译为縛り,繋がり、牵则不对。另外,与群主大师不讨论细节,时间关系。

左藝 12:40
听我的口琴吧

难忘今宵

手指轻轻点▶️就可以听了[愉快]

Zheng Ju 12:42
讨论文学,听听音乐,不虚时光

小草 17:49
淡如水,渺如烟,不相系,总相牵。

水淡きにうす煙
相関らずも心ひかれる。




————— 2016-12-19 —————

木に子 3:17
图片5(可在附件中查看)

万千宠爱也好,一路独行也罢。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-19&p=i

高明黎 7:27
万千の寵愛も良かろう。一路の独行も仕方ない。

左藝 7:34
万千の寵愛も、一路の独行も…

意味がわからない

☆叶子☆ 7:38
中文意思应该是讲:人的一生万千宠爱也好,一路独行也罢。都是c赤条条的来赤条条的走。

木に子 7:40
这句话好像是在说看透了。
人生的一切都看得一清二楚,不管是万千宠爱,还是一路独行,我还是我,什么也不能改变。

Zheng Ju 7:40
万千宠爱也好,一路独行也罢。

誰が寵愛千万を求めても、吾は唯一路独行のみ。

最近、品のない文章ばかり。

木に子 7:43
同忎

小草 7:43
这句话好像是在说:

不管是万千宠爱,还是一路独行,
人最终都是走向死亡。
(有什么好挣的[偷笑])

木に子 7:43
争?

小草 7:44
挣名利,挣钱才,挣...一切身外之物

左藝 7:45
@Zheng Ju [鼓掌][鼓掌]另一种意境

☆叶子☆ 7:45
所以说赤条条的来赤条条的走。

左藝 7:48
话说了半句,之后的让每个人去考虑~好像是这样的

小草 7:50
@木に子 谢谢!
”挣“与“争”真不一样啊!谢谢!

改错别字,“争”字好。

Zheng Ju 7:50
漫揾英雄泪,相离处士家。没缘法剃度在莲台下,赤条条来去无牵挂。☆☆同是诗句,非要用宠爱来类比,差了千万里。

左藝 7:56
昨天,终于见到了赵老师,和蔼里藏着威武,俏皮里有着霸气,声音也特别的好听

图片6(可在附件中查看)

话说一半就让它一半吧@木に子 [呲牙][呲牙]

木に子 9:08
@左藝 很好,本来就是一半。 @Zheng Ju 什么我的?你的吧[抱拳] 埼玉的另一个还给李欧啦[握手]

小草 9:15
雕栏玉砌应犹在,
只是朱颜改?
=---错,错,错
只是腰围改。[偷笑]

@蒲公瑛 [偷笑]

君不见,
高堂明镜悲白发,
朝如青丝暮成雪?

=---又是错,错,错

该是暮成酒~了[偷笑]

Zheng Ju 9:31
铜齿钢牙应犹在,
只是腰围改。
问君能有几多愁,
恰似一只酒瓮向东流。

左藝 10:25
☆今天的一句

万千宠爱也好,一路独行也罢

万千(ばんせん)の寵愛(ちょうあい)も
一路(いちろ)の独行(どっこう)も…

老师们的译句:
☆万千の寵愛も良かろう。一路の独行も仕方ない。
☆誰が寵愛千万を求めても、吾は唯一路独行のみ。
☆,真好!

今天的一句不成句,也许就是想让见过这句子的人,按照自己的想法去编下文吧

☆,这样如何?
人的一生万千宠爱也好,一路独行也罢。都是赤条条的来赤条条的走

☆,这样又如何?
不管是万千宠爱,还是一路独行,人最终都是走向死亡(有什么好争的)
☆,群里的朋友们说的。
☆,群主说的:
人生的一切都看得一清二楚,不管是万千宠爱,还是一路独行,我还是我,什么也不能改变。

大家都把要说的说完了,我也没啥可说的了……

☆这样的地方想进来瞧瞧吗?




————— 2016-12-20 —————

左藝 7:00
图片7(可在附件中查看)

百年等待,是一个母亲不离不弃的爱。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-20&p=i

1999年12月20日,澳门回归

Zheng Ju 7:18
百年等待,是一个母亲不离不弃的爱。

百年待てたのは、我が子を手離せない母親の愛があるからだ。

その我が子を売り渡したのも祖国なのだ。

だから、何も自慢できることはない。

左藝 7:58
图片8(可在附件中查看)

☆叶子☆ 8:36
この世は無条件の愛は母の愛しかないのです。

Zheng Ju 8:39
同意。但要是真妈妈。祖国妈妈大多是卖孩子的。

高明黎 8:41
母親を責めるもどうかと思う

たかが翻訳なのに。。。

LiOu 16:29
Q:北京の空気はお美味しいですか[微笑]。A:雾(う)霾(まい)[流泪]

蒲公瑛 23:19
雾是水蒸气、霾是空气中飘着的“干土”、呛呛的、嗓子发痒老想吐痰、天是黄的、喘不过气儿来。去年元旦从东京飞北京飞三亚、一路上看到的是黄云......

高明黎 23:27
60年前的“伦敦毒雾”可不是被风吹走的

LiOu 23:33
1971年人民日报发文痛批美国的环境污染

@左藝 那年开始嘎榜由[调皮][呲牙]

左藝 23:43
@醉呓 别人听不懂[得意][得意]

☆叶子☆ 23:49
开始交女朋友了[偷笑][偷笑]



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# by li_japan | 2016-12-20 16:06 | 一言一会 | Comments(0)

街道を キチキチととぶ ばったかな/村上鬼城

————— 2016-12-20 —————

浮雲 7:41
包子百家宴
世人难寻見
谁知馅中餐
个味诗中变☆

木に子 8:09
留守中、昨晚不能充电,刚插上电源[抱拳]

高明黎 8:14
おはようございます。群主さまがバッテリー切れ[惊讶][呲牙]

木に子 8:14
1220(二)中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな
【作者】村上鬼城
【季/季語】秋/ばった
【説明】静かな秋の日差しを浴びた、人通りのない街道を、一匹のばったが急に飛び上がった。キチキチと鳴いて、飛んでは落ち、飛んでは落ちしていく。

秋の日差しを浴びながら人通りの少ない古い街道を歩いていると、突然そばの草むらから一匹のばったが飛び上がった。キチキチキチ… という音をのどかに響かせているよ。

「キチキチ」という擬音語が効果的に用いられている。小さな体のばったが音を立てて力強く飛んでいく様子が、古びた街道の静けさや秋のすがすがしさをいっそう印象づけている。(秋・句切れなし)

※街道… 現在では交通量の多い幹線道路のことだが、ここでは人通りの少ない古い街道などを指す。
※ばった… 秋の季語。夏の季語と間違えやすいので注意。
※ばったかな… ばったであることだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※キチキチと… 擬音語。

※ショウリョウバッタ(精霊ばった)… 体長はオスが約5㎝、メスが約8㎝で、緑色または淡褐色。夏から秋に草原に多い。オスは飛ぶ時にキチキチと音を出すが、これは前後の翅(はね)を打ち合わせて発音することによる。コメツキバッタ、キチキチバッタ。

ショウリョウバッタと同様に頭が前方に尖るバッタには「オンブバッタ」と「ショウリョウバッタモドキ」がいるが、生息環境や体の大きさなどが異なる。

オンブバッタはショウリョウバッタより小型で、体長はオスが約2.5㎝、メスが約4㎝。成虫に翅はあるが飛行しない。オンブバッタの成虫では、メスの背中にオスが乗る姿がよく観察される。

また、ショウリョウバッタモドキの体長はオス約3㎝、メス約5㎝。体が細長く、頭が尖っており、ショウリョウバッタに似ているが、ショウリョウバッタやオンブバッタのように首が上に反っておらず体型は直線的である。跳躍力は弱いが、飛翔力に優れる。

※村上鬼城(むらかみきじょう)… 明治・大正・昭和時代の俳人。江戸の生まれ。正岡子規、高浜虚子に師事。重度の聴覚障害者であり、また、貧に苦しみながらも、その不幸な生活の中から自らの苦難の人生を詠んだ句、弱者や虐げられた者に同情を寄せる句を作り、独自の句風を樹立した。

「じぶんは貧乏である。社会的な地位は何もない。婚期を過ぎた娘を二人も持っている。私はそれを思うとじっとしていられない。いくらもがいたところで貧乏は依然として貧乏である。聾(つんぼ)は依然として聾である」(「村上鬼城句集」(大正15年)所収。昭和13年(1938年)没。享年73。

图片5(可在附件中查看)

☆写真:ショウリョウバッタ
(オスは飛行時にキチキチという音を出す)

图片6(可在附件中查看)

☆写真:オンブバッタ
(ハネはあるが飛行しない)

高明黎 8:19
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

街道口 忽左又忽右 蚂蚱秀

还珠格格☆ 8:20
1220(二)中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

风停雨歇脚 秋虫啾啾街中跳 夕阳无限好

糖醋味[调皮][呲牙]

高明黎 8:21
群主电池没电,日历都是十九号的。这地球都不转了[惊讶][呲牙]

还珠格格☆ 8:22
插上电源第一件事就是留作业[呲牙][呲牙]

Zheng Ju 8:23
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

长街寂无人 咯吱咯吱鼓翅声 一只蚂蚱飞

浮雲 8:33
@高明黎 群主验证了爱因期坦名言:当出诗速度超过光速时,时间伫顿,时光倒流了☆

承瑶(楊春) 8:35
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

簌簌秋虫鸣 长街寂寂少人行 一跃动秋声

浮雲 8:52
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

秋眠不觉晓 周身乏力没虫咬 牠们长街笑

云端 9:17
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

寂寥石径长 鸣翅跃起赶路忙 过街一飞蝗

きちきちばった日语写成飞蝗,但是飞蝗好像又不是蚂蚱[呲牙][呲牙]

还珠格格☆ 9:21
@云端 我其实一直分不太清。所以称秋虫[调皮]

云端 9:22
@碧空秋水 蚂蚱大个的,腿长[调皮]

还珠格格☆ 9:23
@云端 照片上的好像是イナゴ[疑问]

云端 9:26
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

寂寥石径长 鸣翅跃起沐秋光 蚂蚱赶路忙

@碧空秋水 照片上我们小时候叫“扁担勾”[呲牙]

还珠格格☆ 9:31
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

夕阳照影长 时间流逝好秋光 扁担勾跳墙[偷笑]

小草 11:45
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

寂寥街 咯吱一声炸 秋蝗也


秋后的蚂蚱
[偷笑]

蝗总科的昆虫都可以叫做蝗虫,蝗总科包括8个科,我们通常所说的蚂蚱主要是剑角蝗科中的蝗虫和锥头蝗科负蝗属的蝗虫.(以上使用的分类阶元由大到小依次是:总科--科--属)
简单的说也就是:蝗虫包括的范围大,蚂蚱是蝗虫中的一些类群.蝗虫和蚂蚱都不是学名,都是俗称,只不过蚂蚱的叫法更为民间化,学术上不使用的,蝗虫这种叫法学术上是比较公认可以使用的,很明确就是蝗总科的昆虫.

云端 12:20
飞蝗是对的了[强]@小草 

浮雲 12:21
@小草 今天成虫子研讨会了。☆


想起来句话,秋后的蚂蚱,没几天蹦头了☆。引伸一下:我们刚出窝的包子,马上要被呑下肚了☆

云端 12:51
@碧空秋水 油炸的应该好吃,没敢试过[呲牙][呲牙]

高明黎 13:40
ショウリョウバッタ - Wikipedia

长头蝗_百度百科

云端 13:46
中文怎么说?蝗虫?螳螂?扁担钩?[呲牙]

长头蝗[强]

高明黎 13:46
长头蝗又称中华箭脚蝗、中华蚱蜢,

云端 13:47
中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

寂寥石径长 鸣翅跃起赶路忙 过街长头蝗

高明黎 13:50
比较优雅的名字。 中文:中华箭脚蝗。 日文:精灵蝗虫

还珠格格☆ 14:11
1220(二)中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

雨停彩虹亮 秋虫啾啾街中逛 中华健脚蝗

Zheng Ju 14:15
ショウリョウバッタの漢字は、もしかしたら、秤量から来てるかもしれない。天秤バッタ。中国の北では、担杖(扁担)という。

云端 14:16
扁担钩[强]

中学受験俳句秋篇No.08
街道を キチキチととぶ ばったかな

寂寥石径长 鸣翅跃起赶路忙 中华箭脚蝗

高明黎 14:18
ショウリョウバッタ の漢字は以下かもしません。

图片1(可在附件中查看)

精霊

Zheng Ju 14:20
私は、その精霊がそもそも秤量から来てるのではないかと思います。

高明黎 14:20
扁担钩 我们小时候也这样叫的[呲牙]

还珠格格☆ 14:24
キチキチバッタだけはキチキチで鳴るのですか。

高明黎 14:25
精霊蝗虫

@碧空秋水 オスだけはきちきちと呼ばれている。

还珠格格☆ 14:29
@高明黎 へ〜[微笑]メスの方が大きいですね[呲牙]

云端 14:31
@碧空秋水 动物界常有的现象[偷笑]

高明黎 14:31
小时候,叫母的为扁担沟 雄的叫 嘎哒板儿。还真不知道学名![呲牙]

云端 14:32
きちきち怎么翻译啊[疑问][疑问]

高明黎 14:33
中华箭脚…瞎编的,不知道[呲牙]

云端 14:37
@碧空秋水 扁担钩吃草是那个声音[呲牙]

还珠格格☆ 14:40
@云端 没少去抓中华健脚吧?[偷笑]

云端 14:41
@碧空秋水 我小时候热爱大自然,天上飞的地上爬的都敢下手[偷笑][尴尬][尴尬]

还珠格格☆ 14:43
@云端 我特后悔没多接触大自然[调皮]。虫子和我相遇,肯定是我跳的又高又快[偷笑]

云端 14:46
@碧空秋水 バッタ没你跳得高[强]我有点跑偏了,没玩儿过娃娃

seiji☆☆morisako 14:47
日本では蝗を食べますが、中国はどうですか?

云端 14:49
南のほうは食べるかもしれません@seiji☆☆morisako 

还珠格格☆ 14:50
@seiji☆☆morisako 日本ではどのあたりでは食べるのですか。[微笑]

seiji☆☆morisako 14:51
没吃过的人都味道尝一下,挺好吃的

長野県の郷土料理です

イナゴの佃煮

还珠格格☆ 14:58
图片2(可在附件中查看)

酱紫的[得意]

seiji☆☆morisako 14:59
伊勢丹地下卖食品場有的

云端 15:00
@碧空秋水 一緒に挑戦してみますか?[呲牙]

还珠格格☆ 15:01
@云端 有你在我肯定有底气了[呲牙][OK]

图片3(可在附件中查看)

云端 15:04
@碧空秋水 就当是会飞的鱼[惊讶][冷汗]

seiji☆☆morisako 15:05
@碧空秋水 日本ではどのあたりで食べるのですか。[微笑]⭕️多了一个は

还珠格格☆ 15:07
@seiji☆☆morisako [惊讶] 日本でどのあたりで食べるのですか。[呲牙]

浮雲 16:34
虫蝗对决卖房
吃了才叫儿郎
广告误入这里
众卿無语忧伤

小草 19:00
明月よ 第九を聞いて 歳の暮れ

浮雲 19:59
虫子变成奥大利亚羊腿了。



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# by li_japan | 2016-12-20 15:35 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

おりとりて はらりとおもき すすきかな/飯田蛇笏

————— 2016-12-19 —————

木に子 3:20
1219(一)中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな
【作者】飯田蛇笏
【季/季語】秋/すすき
【説明】ススキの穂は、見た目には軽そうだが、折り取って手に持つと、思いがけない重さだ。見た目には感じない、生命の重さに感動している。

風に吹かれるままなびくのを見たりするといかにも身軽そうなすすきだが、一本折(お)りとって手にすると、はらりとなだれるように穂(ほ)が垂れ、思いがけずその重みに驚かされたことだ。

見た目には感じない生命の重みに感動している。(秋・句切れなし)

※折りとりて… 折りとって。
※芒(すすき)… イネ科。カヤ。秋の七草の一つ。秋の季語。テストで頻出。ちなみに「枯れすすき」「枯れ尾花」は冬の季語なので注意。
※芒かな… すすきであることだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※はらりと… 擬態語。

※飯田蛇笏(いいだだこつ)… 大正・昭和期の俳人。山梨県生まれ。高浜虚子に師事。感覚的で荘重な句風が特色。昭和37年(1962年)没。享年77。

图片4(可在附件中查看)

高明黎 7:51
中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

芒草随风飘 信手拈来百般娇 穂靡似情重

今天的不好玩儿

《はらりと》是副词。轻轻飘落貌,如树叶飘落,轻轻披散貌,如头发披散

百度!供参考

Zheng Ju 7:58
中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

荒山白芒长 摇曳风里柔无骨 入手知秋凉

还珠格格☆ 8:30
中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

蒹葭芒 似弱有份量 秋霜凉

@高明黎 はらりとと ふっさりなどは 似ているね?[微笑]

高明黎 8:41
はらりと、好像注重描述披散的动作。ふっさり、好像只注重描述结果。?

ふっさりの意味 - goo国語辞書

はらりとは - 隠語辞典 Weblio辞書

还珠格格☆ 9:05
@高明黎 はらり有动感[呲牙]

木に子 9:29
おりとりて はらりとおもき すすきかな

词译(从前的**)
折 取 披散轻飘摆动 重 芒(茅or萱) 秋

芒or茅or萱 穂花轻々杆茎重 秋原之七草
随波逐流不折腰 来回摆动根基稳
(57577短歌)

云端 10:23
中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

瑟瑟起秋风 芒穗摇曳秋色中 折来颇觉重

中学受験俳句秋篇No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

蒹葭苍苍 白穗曳霜 轻折执手 生机有量

Zheng Ju 10:31
蒹葭苍苍 白穗曳霜 轻折在手 与君扫床☆☆天仙配版。@云端 

云端 10:33
@Zheng Ju 蒹葭扫床[偷笑][呲牙]

木に子 10:51
バス停や 顔向き同じ 頭かな
公交站 颜都同方向 向后看
先程の 妙な風景や WiFi16
刚才看到的 京城奇妙风景哉 WiFi16好

还珠格格☆ 11:32
中学受験俳句秋篇
No.07
おりとりて はらりとおもき すすきかな

芒 苇穗轻微无重量 蒹葭盛 生命力坚强

十六字令 蒹葭芒

芒 摇摆轻柔似楚娘 圆明月 苇穗饰秋窗

云端 11:46
@碧空秋水 后边这首有意境[强]

还珠格格☆ 11:48
@云端 翻译那个吭哧半天也没出啥意境[Tongue][Chuckle]

云端 11:49
十六字令 秋芒

芒!
漫舞西风秋水长。
斯人远,
何日共轩窗。

小草 11:52
什么是生命的厚度?什么叫生机?也许这个视频值得一看。

すすき虽轻,也有厚度。

云端 11:54
@碧空秋水 婉约的,婉约也未必都说情爱,可以引申各种意思,比如用相思不成比喻自己怀才不遇啥的[微笑]

小草 12:13
@云端 [调皮]
不知不为过,请谅!请谅!

问君能有几多愁?恰似一江春水向东流

莫愁前程无知己,天下谁人不识君[偷笑]

云端 12:18
@小草 玩笑玩笑[呲牙][呲牙]

劝君更尽一杯酒,西出阳关无故人。



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# by li_japan | 2016-12-19 15:23 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

荒海や 佐渡に横とう 天の川/松尾芭蕉

————— 2016-12-18 —————

木に子 2:55
1218(日)中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川
【作者】松尾芭蕉
【季/季語】秋/天の川
【説明】荒れ狂う日本海の荒波の向こうには佐渡ケ島がある。空を見上げると、白く美しい天の川が、佐渡の方までのびて横たわっていて、とても雄大だ。
【発音】荒海(あらうみ)や/佐渡(さど)に横(よこ)とう/天(あま)の川(がわ)

越後は出雲崎(いずもざき)に宿をとり、目の前の荒波立つ日本海を眺めていると、黒々と潜(ひそむ)む流人(るにん)の島、佐渡の哀(かな)しい島影から打ち寄せる波の音に旅愁を誘われ、横たわるように佐渡にさえざえとかかった銀河の橋は、私の心に旅の寂しさと悲しさをいっそう募らせ、胸いっぱいになって涙が溢(あふ)れてくることだ。

表面上は雄大な景観を詠(よ)んだ写生句のようだが、流人の島、佐渡から打ち寄せる波の音に遠島された古人への同感を抱くとともに、旅中の孤愁に襲われ、その悲しみを深く内に込めた複雑な心境が詠まれたものである。(秋・初句切れ)

※荒海や… 荒れた日本海の海であることだよ、と詠嘆を表している。
※横たふ(よことう)… 天の川が横たわるようにして大空にかかっている壮大な景観を表している。
※天の川… 銀河。秋の季語。季節を夏と間違えやすいのでテストで頻出。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、☆句切れ(文としての意味の切れ目)、☆作者の感動の中心を表す。

※体言止め。

※横たふ… 擬人法。天の川が横たわるようにして大空にかかっている壮大な景観をたとえている。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

☆季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※「おくのほそ道」の旅(元禄二年:1689年)、七夕の吟。

※「おくのほそ道」の旅の後、芭蕉は「銀河の序」で次のように書き記している。
「佐渡が島は金を多く産出する、世の宝であり、ありがたい結構な島ではあるが、重罪者や朝敵のたぐいが島流しにされていることのために、ただ恐ろしい名で評判があるのも残念なことと思いながら窓を押し開けて旅の憂いを慰めようとしていると、日はすでに海に沈み、月はほの暗く、天の川が空の中ほどにかかり、星がきらきらと冴えわたり、沖の方からは波の音がしばしば響いてきて、胸が締め付けられるようで、断腸の思いがし、無性に悲しみが込み上げてくるのでなかなか寝付けず、墨染めの衣の袂は、なぜともなく涙でしぼるばかりでありました。そこで詠んだのがこの句です。『荒海や佐渡に横たふ天の川』」

※この句は芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途上、七夕の日(新暦8月21日)、直江津(高田)の佐藤元仙宅で催された句会で吟じたものであるが、記録によれば7月7日当日は終日雨模様であり、夜には風雨ともにいっそう激しくなっていることから、芭蕉は実際にはその晩に天の川を見ていないことになる。しかし4日については、弥彦を発った朝方は快晴、夕刻に出雲崎に到着してのち、「夜中に強雨となる」と記録があるので、当日天候が崩れる直前、この出雲崎で天の川を見るわずかな時間があった可能性がある。出雲崎での4日、あるいはそれ以前の数日間にその着想を得、7日に当地の句会で吟じ、披露したということなのだろうか。(諸説有り)

参考:曾良の「随行日記」に次のような記録がある。
・7月4日(新暦8月18日)
快晴。午前7時半頃に弥彦を発ち、同日午後3時半頃、出雲崎に到着、宿をとる。夜中、強雨となる。
・7月5日(新暦8月19日)
夜来の雨、朝まで続く。午前7時半頃、雨が止み、出雲崎を発つ。間もなくしてまた雨が降り出す。柏崎に至った後、…(中略)… 午後4時半頃、鉢崎に到着し宿をとる。
・7月6日(新暦8月20日)
雨、上がる。昼頃、直江津(今町)に到着。雨が強く降り、古川市左衛門宅に宿泊することに。夜、句会を催す。
・7月7日(新暦8月21日)
雨、降り続く。夜、佐藤元仙宅にて句会を催す(『荒海や佐渡に横たふ天の川』を吟ずる)。同宅に泊まる。昼のうちは少し止んでいた雨だが、夜になると風雨ともに激しくなる。
・7月8日(新暦8月22日)
雨が止む。午後2時半頃、高田に到着。

※俳人、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、「天の川は出雲崎から見て、佐渡の方には横たわってはいない。したがってこの句は客観的な写生の句ではない」と述べている。一方、中野二三郎は、「天の川は西南からやや斜めに東北にかけて街を横ぎり、佐渡の方へ流れていた。この感じは確かに『佐渡に横たふ天の川』である」と述べている。

※横たふ… 「横たふ」は「何かを横にする」の意の他動詞であり、しかも連体形であれば「横たふる天の川」とすべきであるが、芭蕉はこの句では「何かが横たわる」の意の自動詞「横たはる」の代わりとして使用している。文法上の約束を超えているのは、漢文訓読の影響、音数上の都合や印象に鮮明さを与えるための芭蕉の意図によるものなのかもしれない。

※松尾芭蕉(まつおばしょう)… 江戸前期の俳人。伊賀上野の人。江戸深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風(しょうふう)を開拓。各地への旅を通じて、不易流行(ふえきりゅうこう)の思想を形成し、俳諧を文芸的に高めた。「おくのほそ道」「野ざらし紀行」「更級日記」「笈の小文」など。元禄七年(1694年)十月十二日(新暦11月28日)没。享年51。

・蕉風(しょうふう)… 松尾芭蕉およびその門流の信奉する俳風。美的理念としては、幽玄、閑寂を重んじ、さび・しおり・細み・軽みを尊ぶ。

・不易流行(ふえきりゅうこう)… 蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧には不易(時代を超えて変わらないこと)の句と流行の句とがあるが、流行の句も時代を超えて人々に訴えればそれは不易の句であり、ともに俳諧の本質を究めることから生じ、根本は一つであるという論。

※「おくのほそ道」… 松尾芭蕉の俳文紀行。元禄二年(1689年)3月末江戸を出発し、東北・北陸を巡り美濃大垣(岐阜県)に至る約150日間、およそ六百里(約2400㎞)の旅日記。洗練された俳文・俳句は芭蕉芸術の至境を示している。元禄七年(1694年)頃成立。元禄十五年(1702年)刊。芭蕉自身は「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」という表記を好んで用いていた。原文の題名もこの表記となっている。

图片3(可在附件中查看)

☆地図:「おくのほそ道」の旅でのルート

高明黎 3:46
今天的俳句做过了![惊讶]

中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川

海浪涌 看佐渡岛耸 银河纵

木に子 3:56
我也觉得是 但不知为何机器 给检索漏了

http://sxcn.exblog.jp/23399355/

还珠格格☆ 7:00
中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川

凝目观海涛 波浪之巅佐渡岛 好似银河高

高明黎 7:11
バグだらけ 木の子作製 プログラム[呲牙]

木に子 7:51
@高明黎 @碧空秋水 [强]
秋の句を 夏にされけり 原因だ 我がプログラム バグがなさそう[呲牙]

还珠格格☆ 7:53
@木に子 回答は プログラマ並み 強気だね[偷笑]

木に子 8:01
@碧空秋水 [抱拳][抱拳][抱拳]
一つのみ 披露しようか 裏技を

图片1(可在附件中查看)

图片2(可在附件中查看)

图片3(可在附件中查看)

この技で 一行の中 句のみけり

メモ帳で 前空行も コピペけり

还珠格格☆ 8:15
@木に子 コピペ高手[惊讶][呲牙]

Zheng Ju 8:19
中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川

波涛望无边 佐渡日落归渔船 银河横长天

木に子 8:20
荒海や 佐渡に横とう 天の川
荒海上 逍遥去佐渡 银河桥

あの佐渡に 行きたかったの 芭蕉けり

今日の句 2回目のため 副題を

【一途に生きる】
花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びだけが残るのだ
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
今天出二题 求译成中文诗词 十六字令可

高明黎 9:02
けり 連用形に接続 乱用しないでください[惊讶]

木に子 9:05
我好象见过 名词之后也可以 是我记错了?

あの佐渡に 行きたかったの 芭蕉かな

なら宜しい?

浮雲 9:20
中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川

巨浪掀天川 佐渡波涛如大山 水下龙王安

木に子 9:26
@浮雲 [强]和个77俳
大家都在抬头看 你却潜伏入了海

云端 9:34
中学受験俳句秋篇No.06
荒海や 佐渡に横とう 天の川

月下浪滔天 银河横越到佐渡 海天一色连

能看到银河,一定是夜晚吧[愉快]

还珠格格☆ 10:07
@云端 昨天和 妈妈桑还在 说这事[呲牙]

云端 16:45
俳句・汉俳--原创(云端VS碧空秋水)

浮雲 21:20
菜包肉包水煎包
另加山西小笼包
紧火慢火赶紧蒸
不被吃掉如何活?

木に子 22:10
一途に生きる

花には
散ったあとの
悲しみはない
ただ一途に咲いた
喜びだけが残るのだ

试译 一味地生存
花 散落之后无悲伤 求生存 只留下喜悦

云端 22:26
花 凋落成泥莫嗟呀 春归处 苒苒绽新芽



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# by li_japan | 2016-12-18 15:31 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

朝立や 馬のかしらの 天の川/内藤鳴雪

————— 2016-12-17 —————

木に子 0:42
1217(六)中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川
【作者】内藤鳴雪
【季/季語】秋/天の川
【説明】まだ夜が明けぬうちに馬に乗って旅に出る。見上げる空にはまだうっすらと、天の川が見える。
【発音】朝立(あさだち)や/馬(うま)のかしらの/天(あま)の川(がわ)

Zheng Ju 1:05
中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

黎明要远行 骏马昂首啸秋风 银河横长空

木に子 5:32
内藤鳴雪 鳴雪自叙伝

高明黎 7:27
中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

凌晨去巡逻 龙驹飒爽天蓬歌 马蹄迹银河

朝立ちや 馬のかしらの 天の川
『西遊記』の猪八戒は、玉帝より天蓬元帥職を任され、天の川の管理をしていたことになっている。銀河の星がキラキラ、それは馬の足跡。

木に子 8:38
なぜか、自伝本の中には、本句が無い。ちなみに、朝や天のある句は
朝拝や 春は曙 一の人
朝露や 矢文を拾ふ 草の中
矢車に 朝風強き幟かな
元日や 一系の天子 不二の山
春の夜の 鳩のうめきや 絵天井
である。

高明黎 8:56
また、ガセネタを出して翻訳させられた?[流泪]oh my god

浮雲 8:58
中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

朝霞赤兎马 权且座驾任我耍 天河晚归家

木に子 9:09
氏は草双紙で俳句を啓蒙された。
草双紙 我が小人書 いまマンガ
草双纸 中国小人书 日漫画

氏が初めて俳句に接したのは、種彦(たねひこ)が書いた草双紙『女金平草紙(おんなきんぴらぞうし)』。この草紙は女主人公が『金平(きんぴら)のお金(きん)』である。中にあった句は:
白炭や 焼かぬ昔の 雪の枝
茶の花は たてゝもにても 手向かな
軒端もや 扇たるきと 御影堂
角二つ あるのをいかに 蝸牛
元日や 何にたとへむ 朝ぼらけ

高明黎 9:12
@木に子 朝立や 天涯詩壇 テリトリー 朝辞俳句群 大师巡逻转一圈 天涯近咫尺[得意][呲牙]

木に子 9:33
システムで 九まではできる ついでかな

氏の漢詩と俳句の話が面白い

私は藩地の明教館にあった頃漢文では例の紀事といったものはかなり書いていてこれは先生達にも褒められたので、自分にも漢文は出来ると思っていたが、その後御小姓を勤めたり、旅行などしたので、それらの事も全く廃していた。そこで、この大学へ入ったから漢文を書いて見たいと思い筆を執ったが一向に書けない。寮中の先輩に就いて相談すると蘇東坡の文を熟読したらよかろうというので、まず八大家文の東坡の所を頻りと読んで、中には数篇暗誦することも出来た。そうして筆を執って東坡の口真似見たような論文なども書いて見たが、自ら見てさえうまくない。それでも幾つかは書いたのが今も少々残っているが、私は生来文章は不得手なのであった。詩は理窟めいたことばかりいったとしても、それを作る才はあるので、今日は俳句の標準から稀に詩も作って見るが、昔よりは何ほどか詩らしいものが出来る。尤も漢文でも、多年多くのそれを読んでいるから、他人の作は何ほどかわかるが、自分ではもういよいよ気が挫けて二行三行のものさえ書けない。仮名交りの漢文でさえもやはりむつかしい。しかるに最近は口語体の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかこうか、自分の意志を現わし、また人と討論することも出来るようになった。

私もまったく同感である。漢詩には時間がかかりすぎ、俳句なら随時にできるので、大忙しい皆には、よく合っていると思われるので、こんなに普及された

氏は子規に導かれて俳人生活をする事になった

云端 9:40
中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

清晨踏旅程 骏马昂首引长鸣 银河闪闪星

还珠格格☆ 9:52
中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

黎明破晓前 登上征途骏马牵 银河向天边

@高明黎 面白すぎる[呲牙][呲牙]

@木に子 色々調べたんですね![强]

云端 9:56
@高明黎 面白すぎる[呲牙][呲牙]

@木に子 色々調べたんですね![强]

人云亦云[呲牙][呲牙]

还珠格格☆ 9:58
@云端 现在流行コピペ☆[握手]

云端 9:59
@碧空秋水 你逗我捧[呲牙][握手][胜利]

还珠格格☆ 10:00
@云端 交完作业放松一下[偷笑][拥抱]

云端 10:02
@碧空秋水 再搞点副业[呲牙]

高明黎 10:23
@云端 @碧空秋水 赞☆!

俺来个正经的,不然木子大师会生气的[呲牙][调皮]

中学受験俳句秋篇No.05
朝立や 馬のかしらの 天の川

凌晨起行时 马首摇缰鞍上飞 银河是路碑

云端 10:26
@高明黎 鞍上飞,银河路碑,大手笔[强][强][玫瑰]

还珠格格☆ 14:37
@高明黎 高大上!向着银河勇往直前[呲牙][强]

高明黎 15:23
天涯の 朝立知らせ 木の子哉

木に子 17:19
朝立や 馬のかしらの 天の川/内藤鳴雪

今日の句 まず思い出す 朝の旅
朝立や 温泉巡り 車かな 北の山形 南広島

鸣雪自叙传 炼出俳事供您看 清点下行链
http://sxcn.exblog.jp/23724717/

各仙均利刹 早交作业去玩耍 我还在嚼腊
凌晨 出发 马 头? 天 星河 秋

起大早出发 高头大马股下跨 天河秋星眨

Zheng Ju 18:40
群主大师爱记仇,每天嚼蜡不罢休。既然有闲啃蜡烛,何不用心打酱油?

木に子 19:20
记仇倒没有[握手] 不打酱油酿点醋[呲牙] 蜡就不嚼了[胜利] 不嚼点没味的蜡 怎知道高调美味?[偷笑]

高明黎 19:41
不打酱油酿点醋 各种调料全品尝 练就一身烹饪术 大师高调美味香[得意][惊讶][呲牙]

浮雲 20:02
之一
群主横刀立马
门下微信百家
信徒少说上万
每日报时晕了

之二
顶礼膜拜群主
都是衷实信徒
学好本领励志
创意发明宏图

高明黎 20:07
每日报时晕了 拂晓不知明了 本想天明拜了 却见群主去了

浮雲 20:12
之三
百家微信统括
扬名天下不过
今日痛饮清酒
来日茅台不错!

之四
内容泛盖宇宙
俳棋书画风流
更有诗坛助兴
实质全是酱油☆

木に子 20:24
内藤鳴雪俳句抄録 松浦為王選択 木子編集 : 一言一会/那三届

今天酿的醋 一共二百单八首 内藤呜雪俳

小草 22:06
晕了。
酱油~吃醋~打蜡~
...
都是啥味?

打情骂俏
全是诗画[偷笑]

有趣,学习了[抱拳]



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# by li_japan | 2016-12-17 15:22 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝① 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句
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私の八歳の時に、継母は男の子を生んだ。大之丞と名づけられた。そこで私は始めて弟というものを持ったのである。年は七つも違っていたが、それでも弟が少し生い立って来ると、随分喧嘩もした。大之丞が私の絵本などを汚すと、いつも私は腹を立てた。

私はもう芝居も知り草双紙にも親しんだが、かの間室から貰った草双紙の綴じたのの中に、種彦たねひこが書いた『女金平草紙おんなきんぴらぞうし』というのがあった。この草紙は女主人公が『金平きんぴらのお金きん』で、その夫が神野忠知ただともにしてある。この人の句で名高い

白炭や 焼かぬ昔の 雪の枝

というのが、或る書には『白炭は』とあって名も種知としてある。この異同から種彦が趣向を立てたものであった。その関係からこの本には他のいろいろな句ものっていた。

茶の花は たてゝもにても 手向かな
軒端もや 扇たるきと 御影堂
角二つ あるのをいかに 蝸牛
元日や 何にたとへむ 朝ぼらけ

というもあった。これらを読んで面白そうなものだと思ったが、それが三十幾年の後に『俳人』などと呼ばれる因縁であったといわばいえる。

この草双紙の筋は、忠知が或る料理屋で酒を飲んでいると、他の席にいた侍のなかまが面会したいといって来た。忠知はそれを面倒に思って、家来に自分の名を名乗なのらせて面会させた。すると、その家来が悪心を起して、その席の一人の侍の懐中を盗んだ。それがすぐ発覚したので同席のなさけある一人が、その家来を刺殺して、忠知は過ちを悔いて自殺したといい触らした。この事が後世に伝わり、忠知は切腹したという事になってしまった。忠知はこの異変を聞いて、もとは自分の一時の疎懶そらんゆえと後悔したが、もはや追付かず、表向きに顔を出すことが出来ぬ身になり、その後、金平のお金という女と夫婦になり、そのお金の親の仇を討つというのが大団円になっている。

こんな複雑な筋のものも段々読み得るようになったので、いよいよ草双紙が好きになった。私が八つ九つの頃に見たのは三冊五、六冊ぐらいの読切り物で、京伝種彦あたりの作が多かった。それから或る家で釈迦八相倭文庫しゃかはっそうやまとぶんこを借りて来て読んだが、これが、長い続き物を見た始まりで、こういう物は一層面白い物だと思った。この本で釈迦の事蹟の俤を知り、後日仏教を知るその糸口はこの本で得たともいえる。『白縫譚』『児雷也豪傑譚』なども追々と読んで行った。

私は九歳の時君侯へ初めて御目見おめみえをした。御目見えをしないと、いかに男子があっても、主人の歿した際、家禄が減ぜられる定りであった。それで男子は八歳以上になれば、君侯の御都合を伺って、御目見えをして置くのである。私もこのお目見えの時は上下を着用して上屋敷へ行った。なんでも一日か十五日かの式日で、諸士に御面会あるそのついでにお目見えをしたのであった。そばには父が附いていてくれたが、怖いような気がした。このお目見えを済ました子を『お目見え子』といって、その翌年から君侯に対して年賀もするし、その君侯が亡くなれば葬儀を見送り、法事の際には参拝して饅頭などを戴くことになっていた。



その頃の寄宿舎は講堂その他の学問所に続いて建てられて、新寮旧寮といっていた。新寮は藩命の寄宿生が出来たために新設されたのである。舎の数は旧寮五室、新寮三室、各々寮長があった。これは二人ながら七等以上を貰っていて、もう本人は一通り修業が出来ているけれども、後生の指導のため特に寄宿していたものである。この八つの各室は旧寮の方は宮、商、角、徴、羽、新寮の方は智、仁、勇、と称していた。私の入ったのは仁寮で、同室が他に二人あった。一人は寄宿生として先輩であったが、私は以前より漢学の方は自信があり、先生達にも認められていたので、先輩は勿論、先生達さえ別に恐いとは思わなかった。尤も大原武右衛門、号を観山かんざんという、即ち正岡子規の母の実父に当る人は、経書も歴史も詩文も総ての漢学に熟達し、人物も勝れていたので、この人ばかりは恐れていた。そんなことであるから私も寄宿生となって以来はいよいよ得意となり、また周囲からも多少は推重せられていたようである。そしてこれまでの独看席は官の書籍を借りて独看するのみであったが、寄宿生となると当然輪講や会読にも列し、朝の素読席では生徒へ素読を授けねばならぬので私もそれらに従事した。輪講や会読席へ出て見ると、やはり読書力のない者が多かった。輪講は或る経書について籤くじを引いて中あたった二、三人が順番に講義をし、終ると一同の質問に対し答弁する。その質問や答弁が間違っていると、控えている先生が正してくれる。あるいは叱りつける。会読の方も籤を引いて順番にするが、これは単に本文を一段ずつ読んで行って、そして他の者と共に意義の解釈については討論するばかり、これも先生に最後の教えを受くることは勿論だ。生徒は予め種々な註釈書を見て一通り意義を調べて置いて出席したものである。そして初心者は何々示蒙などいう仮名交りの解釈と首引して調べたものである。が私は既に自宅でも朋友同志で輪講会読もして聊か牛耳を執っていたのであるから、この寄宿舎の方でも最もよくしゃべった、先生も私の説には多く首肯してくれた。だから大抵の者はこの籤の中るのを非常に恐れていたが、私はかえって希望していたものである。今でも私は俳句を作るよりもその議論をするのが好きであるが、既にこの頃より議論ほど面白くまた得意なものはなかったのである。

この外になお文会と詩会とがあった。これは月に各一回、これにも先生達数人が臨席して各生徒の作った詩文を批評した。そこで私もいよいよ詩を作らねばならぬ事になった。前述の如く私の詩は理窟ぽい事のみで、花鳥風月を詠むことが出来ないのであるから、この詩会には少々降参したが、当時の寄宿生は詩などもたいして出来なかったので、私の詩もそれに比してはさほど劣ったものでなかった。文会の方は到底まだ論文とか紀行文とかいうほどのものを作る生徒がないので、まず紀事といって、ある仮名書の文章一段を漢文に翻釈させるばかりであった。これは私も読書力があったから、さほどむずかしいとも思わず、紀事の成績はいつも優等で先生から賞讃されていた。詩の方とてもその頃の先生達は今日の俳句でいえば多く月並で、当時流行の尊王攘夷とか慷慨悲憤などを述べれば、それでよいと思っていた。なおこの淵源に遡れば、当時の漢学の程朱主義は、詩文を卑み経義を尊ぶことに傾いていたから、詩作の上にも、あまり詩人めいた詩らしい詩を取らなかったのである。この訳から私の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き、山陽詩鈔を送ってくれた。それを開いてみると、歴史を種に尊王主義の慷慨を詠ったものが多いので、あたかも理窟ぽい私の頭と一致して、詩は山陽心酔者となり、益々慷慨の詩を作った。尤も山陽だけの詩の修辞が出来れば上々だが、私のは随分骨っぽくてまず東湖あたりの口真似に過ぎなかった。

私の恐れた大原観山先生は、自分だけは申分ない詩を作っていられたにかかわらず、後生を率いるにはやり慷慨的に傾いて、私の詩にも度々よいお点や批評を与えられた。そこで私も信ずる所の先生の下にいよいよこの方面を発揮することになった。だからその以来私の四十六歳で常磐会寄宿舎の監督として、寄宿生正岡子規に引きこまれて俳句を初めるまでの間、詩といえばいつもそんなもののみを作っていた。従って長い間に二千や三千の詩は出来たと思うが、今残っているものを見ると、殆ど全部月並であることに自らも驚くのである。

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

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# by li_japan | 2016-12-17 14:49 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝② 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句



いよいよ長防討入りという事で、幕府から軍監を差下さるるようになった。元治甲子の初度の征伐は藩主が出陣して、領内の神ノ浦まで本陣を据えられたのであるが、毛利家が恭順したので、間もなく帰陣せられた。そこでこの度は世子が藩主に代って出陣したいと幕布に願い、許可を得られたので、まず三津浜まで出向して本陣をすえられた。私もその際家族と別盃を酌んでいよいよ生死の別れをした。三津浜では藩の船番所を世子の御座所となし、我々は町の人家を徴発して下宿した。これも今日の俳句生活と一つの関係だが、私の下宿は木綿糸の糸車を造る老人夫婦の小さな家であって、この老人は発句を作って何とかの俳号も持っていた。何か書物でも見せろといった時、発句で高点を取った巻などを見せた。なお小さな床には鶯居の名でこの老人へ宛てた手紙を懸軸にしていた。この鶯居は藩の一番家老の奥平弾正という人のことで、かなり発句も出来て藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かような御家老の手紙を、糸車造り風情が貰ったのだから頗る自慢をして床に懸けて、我々にも見せていたものである。がそれらの発句は私には何らも趣味を有もたなかったのであるから、今は記憶していない。この下宿には今一人同僚の先輩たる山内駒之助というが居て、これも多少漢学をしていて、かつては明教館の寄宿舎で寮長でいた関係もあるから、殊に親しく話し合っていた。この外同僚中私の従弟の小林伊織とか山本新三郎とかもよく来て、漢学や詩文の話を仕合った事である。この小林は文章がよく出来た。

一〇

これは少し前の出来事だが、私と同じ連坐して目付願取付となった野口勇三郎と二人は、藩から洋学修行として江戸表へ行けとの命があった。窃に聞けば、これは世子の思召で、私どもの才を惜み、父の責罰中ではあれど、特にこの恩命を下されたのであるらしい。また多少は久しく輔佐となっていた父に対しても、間接に慰藉されるお心でもあったろうか。さすれば私はこれに対して大に奮発し、この学を十分研究すべきはずであったが、漢学仕込みの私の頭は何だかまだ夷狄の学問を忌み嫌い、その他家庭の事情にもほだされたので、遂に平常信仰する彼の大原先生に縋って、右のありがたい恩命を辞してしまった。そういうと可笑しいが、学才には富む私だから、この慶応時代から外国の学問をしていたら、爾来かなりの大家にはなってはいよう。しかしそのため今日の俳人鳴雪とはなっているかどうか。呵々。

十二

こんな見物ばかりしちゃいられない、いよいよ昌平学校へ入らねばならぬのだからその手続をしてもらって、間もなく許可されて学生となり入寮した。京都より同行の薩州その他の書生も前後して入寮したので、これら知っている顔とは朝夕打寄って話などもするから別に心細くもなかった。この昌平学校へ段々入って来た寮生でその後世間に知られている人を少しばかり挙げると前にもいったが、薩州藩では黒岡帯刀氏長崎省吾氏の外、川島醇氏西徳次郎氏山本権兵衛氏、大村藩では岩崎小次郎氏、肥前藩では松田正久氏中島盛有氏(当時土山藤次郎)、土州では谷新助氏奥宮正治氏、中村藩では相馬永胤氏、久留米藩では高橋二郎氏、富山藩では磯部四郎氏、高鍋藩では堤長発氏、処士では色川圀士氏村岡良弼氏などである。なお公家の子弟に八氏大名の子弟にも八氏あった。それから私の知っている所で、文章家では肥前藩の於保武十氏中村藩の藤田九万氏、詩家では小田原藩の村上珍休氏などであった。この頃はいずれの藩からも昌平学校が開けたというので、入寮生が頻りにふえる。そこで、幕府以来の旧寮の外にまた新寮が出来て、前後の通計では入寮生が四百人以上にもなったと聞いている。かく多人数が居るにかかわらず、余り勉強はせない。その頃の教官は漢学では水本先生の一等教授の外吉野立蔵氏が二等教授私の藩の藤野正啓氏が三等教授、国学では平田鉄胤かねたね氏が一等教授、矢野玄道氏が二等教授木村正辞氏が三等教授であった。間もなく官制を改められて、太政官その他の諸省が出来たので、昌平学校は大学本校となり、開成学校が大学南校医学校が大学東校となって、教員の職名も改正せられた。そこで水本先生と平田鉄胤氏とは大博士、吉野立蔵氏矢野玄道氏外に青山廷光氏川田剛氏が中博士、藤野正啓氏、岡松辰氏が少博士、これが漢学科、また木村正辞氏その他数氏が中少博士になってこれが国学科、なお大中少の助教があって、漢学では亀谷行蔵氏川崎魯輔氏が大助教塩谷修輔氏岡千仭氏が中助教、また井上頼国氏が中助教であったのだが、多分国学科であったろうか、その他も国学では数々あったが十分に知らない。尤も肥後藩の生駒新太郎氏は最初大寮長で、後に少助教へ転任したのだが、経学家であったから私は心安くしていた。なお少寮長の仙台藩の遠藤温氏と心安くしていた。間もなく私等の数名も経義質問係というを申付けられたが、その頃の事であるから誰も質問に来る者は無いので全く空名であった。それもそのはず博士あたりの講義をせらるる時さえも出席する者は僅の人数であった。実は私も国学の講義で木村正辞氏の古事記を一回聴いたのと、生駒新太郎氏の経書の輪講へ二回ばかり出席したのみであった。しかし私は生来読書が好きだから、他の者よりは勉強して、常に自室に籠って読書をした。書籍は旧来の昌平塾在来のものの外、幕府の紅葉山文庫の蔵書がこの大学に交付されていたから、それを借覧することが出来るので頗る都合がよかった。中には唐本の表紙の裏はベタ金になっているのもあった。これは将軍の座右へも行ったものであろうと思われた。私は藩地の明教館にあった頃漢文では例の紀事といったものはかなり書いていてこれは先生達にも褒められたので、自分にも漢文は出来ると思っていたが、その後御小姓を勤めたり、旅行などしたので、それらの事も全く廃していた。そこで、この大学へ入ったから漢文を書いて見たいと思い筆を執ったが一向に書けない。寮中の先輩に就いて相談すると蘇東坡の文を熟読したらよかろうというので、まず八大家文の東坡の所を頻りと読んで、中には数篇暗誦することも出来た。そうして筆を執って東坡の口真似見たような論文なども書いて見たが、自ら見てさえうまくない。それでも幾つかは書いたのが今も少々残っているが、私は生来文章は不得手なのであった。詩は理窟めいたことばかりいったとしても、それを作る才はあるので、今日は俳句の標準から稀に詩も作って見るが、昔よりは何ほどか詩らしいものが出来る。尤も漢文でも、多年多くのそれを読んでいるから、他人の作は何ほどかわかるが、自分ではもういよいよ気が挫けて二行三行のものさえ書けない。仮名交りの漢文でさえもやはりむつかしい。しかるに最近は口語体の文章が一般に流行するので、それはいつの間にか書き覚えて、今ではどうかこうか、自分の意志を現わし、また人と討論することも出来るようになった。

十四

東京へ着した時はまだ藩の出張所は何とかいった、京橋あたりの旅店に設けられていた。そうして三田の藩邸は久松家の住わるる私有邸となっていた。私どもはまず藩の出張所へ到着を届けて、そこへ一、二泊させてもらった。その内従弟の中行は三田の慶応義塾へ入塾した。私と由井氏とは芝の新銭座の或る人の坐敷を借りて寓居した。三度の食事はその頃始まっていた、常平舎というから弁当の仕出しをさせた。この常平舎は東京到る所にあって頗る書生どもに便を与えた。中には一家族が煮炊の煩累を避けてこの常平弁当を喰べる者もあるとさえ聞いた。この新銭座に居た頃忘れもせぬのは年越しの晩であったが、つい近傍の浜松町の寄席へ由井氏と共に行った。影絵の興行で、折々見物の席も真闇となる、そこでその真闇が明るくなった際、気が付いて見ると私の懐中がない。今しがた、布団代を払ってそのまま懐中を傍へ置いたのだが、右の真闇に乗じて誰かが盗んだのらしい。席亭へも話して見たが捜索の道がない。やむをえずそのまま帰寓したが、この懐中は最近二分で新らしく買ったのである。金はたった二分残っていたのだから、それらはさほど惜しくもないが、この懐中には実印が入っていた。もしもそれを他人に使用されては如何なる迷惑が来るかも知れぬから、それのみが懸念で堪らぬ。今日なら印形の遺失とか盗難とかの届をするのだが、その頃はそんな道もないから、せめてもの申訳でもあるし、また入用でもあるので、新たに実印を彫刻せしめた。私はかつてもいった通り、母方の伯母聟の中島翁に師克という実名を貰ったが、師克の師は憎まれ者の師直の師と同じなのが厭なので、自分で永貞と改めた。これも易の坤卦から取ったので、そうしてこの度失った実印も永貞と彫っていた。しかしそれを今後名乗るのも気がかりなので、更に素行と改めてそれを実印に彫刻せしめた。これは中庸の文言から取ったのである。しかるに後年何事も成行きに任すという事の当て字で鳴雪と俳号を付けた関係から、この素行までを、ナリユキと読む人があるが、これは元来モトユキと読ませているのである。

十五

今回の出京は、英学の修業が目的であるのだから、その手順を求めたのであるが、私といい由井氏といい、書生としては老書生であるので、まさか少年輩と同じ級で、ABCを習うのも間が悪い。といって自分の都合のよい学校もないから、或る日同郷の先輩藤野正啓氏に相談すると、それは私が、親しくしている岡鹿門の塾へ行くがよい、彼の塾頭には河野某というが、同じ仙台人で漢学の傍ら英学を修めていて、岡の塾は漢学と洋学とを二つながら教授しているからその洋学の方を学ぶといって入門するがよい、私が紹介しようと肯われた。そこで私は由井氏と共にその頃愛宕下町にあった岡塾へ行って、まず岡先生に面謁し、それから塾長をしている河野氏にも逢った。兼て藤野翁からの依頼もあり、私どもはもともと漢学生であるという事を知って居られたので、岡先生も漢学話などをせられて、数時間も居て辞し去った。しかし二人ともサア今日から行こうという気にならず、なんだか横文字の書を開くのがオックウな感じがして、一日一日と遅らした。そのうち或る都合から由井氏とは同寓する事をやめて、私は藤野翁の宅へ頼んで同居させてもらった。そこでいよいよ岡塾へ行く機会を失ったが、この宅にも塾を開かれて、漢学を教授して居られ、塾長は会津人の斎藤一馬氏といって、この人は漢文が巧かった。そんな事から私は持って生れた漢学の嗜好の関係よりこの塾中の人々と交際をして、詩の応酬なども始めた。

この藤野宅に寓居している時であった。ある日大火だと人が騒ぎ出したから、塾生らと共に行って見ると、今しも和田倉門内の旧大名邸が燃え落ちて、飛火が堀を越して某邸へ移って盛んに燃え揚る所であった。そこでこの火の燃え行くのを見物しつつ段々と歩いて、即ち火事と同行をなしつつ築地まで行った。けれども余りに風が強く砂が眼に入るので遂に堪え切れずして帰寓した。この火はとうとう海岸まで焼け抜けて、西本願寺を始め、その頃有名なる築地ホテルも烏有に帰してしまった。これは明治以後東京始めての大火であったのだ。

そうこうするうち、明治五年となって、いよいよ旧藩庁が新設石鐵県へ事務を引継ぐ事となり、従って私どもの学資も出所がなくなった。藤野翁はこちらで修業がしたいなら、その学資位はどうかして周旋しようともいわれたが、私は郷里の父が彼の平均禄位では生計が立たず、さぞ困却していようと思うと、この上東京で一人安気にぶらぶらしているのが済まない感が生じた。これは初一念とは違うのだが、小胆な私はこう思い出すと、矢も楯も耐らず、藤野翁の好意には反くけれど、終に帰郷する事に決した。由井氏も同様に帰郷するはずであったが、都合に依り私は一人旅行で東海道を行く事になった。旅贅は未だ旧藩の出張所員からくれたので、豊かでもないが、それで東海道の名所位は少しの廻り道をしても見物しようと思い定めた。頃は三月であったろう、東京を出発して、その時はもう人力車がどこにもあったから、一日の行程も以前よりは早くはかどって、大阪まで着いた。川止めなども旧藩時代の如く殊更らなことをせぬから何の滞りもなかったのである。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を艀はしけへ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからといって、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。その夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。

十七

私はこの年の歳末に、久松家の麻布長坂の別邸へ、行くようにとの事であったから、そこへ移った。その頃は東京の物価も余り高くない時であったが何しろ五十円の収入が四十円に減って、しかも都会生活をしなければならぬというのだから、随分困難であった。私の家庭は前にもいった、長女長男の外になお次女せいというを挙げていたので、その頃は親子五人の暮らしであった。それからここへ来ると文部省へは一里と十丁ばかりの距離であるが電車もない時代とて、それを日々歩いて勤めた。衣服も多くは唐桟とうざんに嘉平次平の袴位を着るし、あるいは前にいった、地方官会議の随行の時新調した、モーニングコートを着ることもあった。靴は半靴を好んで穿いた。これは往来の遠いため早く損じて度々新調したものである。それから家族の衣食もそれに准じて粗末なもので辛棒させて、魚や肉などは余りに買わないで多くは浅蜊あさりや蛤はまぐりまたは鰯売り位を呼込んで副菜にし、あるいは門前の空地に生い茂っている藜あかざの葉を茹でて浸し物にする事もあった。顧るに私の一生で生活の困難を感じたのは、この頃が最も甚だしかったように思う。しかしその年末に三等属に昇り、その翌年は二等属に、また翌年は一等属に昇るという風に、漸々と収入は増したのだけれども、都会生活だけにやはり苦しい事は苦しかった。

翌十四年に副局長の久保田少書記官が、神奈川、埼玉、群馬三県へ巡回する随行を命ぜられたので、それらの地方の学校その他の様子を見る事が出来た。この時神奈川の或る小学校で、教育上に関して久保田氏の代理として演説をする事になったが、或る拍子に詞が滞ると共に思想が散漫して後の語が継げず、頗る不体裁をしでかした。尤も私は藩の学校などでも講義をするのは人よりもうまかったから、人中で喋る事は多少の自信もあったのであるが、忘れもせぬ、学区取締となった最初に、小学校設置の必要を松山の有志者に説き聞かす時、少しいい詰って、出来そこなった事がある。それ以来、大勢の前での演説は少しおくれ気味になっていた所へ、この度文部省出張官の位置としての演説であったから遂に失敗したのである。これは後の事だが、それに懲々こりごりして、文部省勤務中は演説事は断って全くせなかった。その後子規に導かれて俳人生活をする事になって卅年頃に神田の或る学校で講演会を開いた時に思ったよりも巧く喋舌った。次に徒歩主義会の講演を神田橋外の和強学堂で開いた時も出来栄えがよかった。そんな事で私は元気を回復して、今では演説や談話は好んでもする事になって、聴衆が多ければ多いほど弁舌もいくらか伸びるという風になった。

それ以来私は寄宿舎の監督のみを職務としていたが、そう日々の用向きはないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通った道路に朱を引きそのため用もない道や、わざわざ廻り道などもして、段々と図面が赤くなるのを楽しみにしていた。また近在の宮や寺や名所などもあまねく廻ったから、今日でも、これらに知らぬ所はない。しかのみならず、寄宿生には時々遠足会という事を催すので、それも私が率先して熟知の名所古蹟等へ伴う事にした。私は身体の人よりも弱いにかかわらず、足だけは幸に達者なので、この書生を率いた時などは、別して痩せ我慢の健足に誇って見せた事である。

寄宿舎に居る生徒は各々自分の目的に従って学校へ通っていたので、法律や政治や経済やまた文学などと各方面の生徒も居たのだが、正岡子規氏とか、河東碧梧桐かわひがしへきごとう氏の実兄竹村黄塔氏とかは文学専門であって、なお漢学も修めていたから、私は時々この二人と共に漢詩を作り合う事もあった。また同行して郊外へ散歩する事もあって、この際は漢詩の外、七五体の新体詩見たようなものを、互に附け合うような事もして、暢気な遊びをした、これは言志集といって、今も数冊残っている。尤も子規氏はその少し以前から俳句を作り始めていたので、黄塔氏や私もその真似をする事になって、今で見れば変なものだが、連句みたようなものを作った事もある。が、私はまだ本気に俳句を作ろうという気もなかった。而して折々見れば寄宿舎では右二氏の外、五百木飄亭いおきひょうてい氏とか勝田しょうだ明庵(主計かずえ)氏とか藤野古白ふじのこはく氏とか新海非風にいのみひふう氏とか佐伯蛙泡氏五島五州氏とかいうが随分盛んに俳句をやっていたのである。しかるに廿五年の年始に私は二つばかり俳句が出来て、それを子規氏に見せたら、これはなかなか好いといって誉めてくれた。それから私も暇ではあるし、いよいよ俳句を遣って見ようという気になって、作れば作るほど熱心の度を増した。この夏子規氏は松山へ帰省して、彼地でも俳句を宣伝して段々と同好者を生ずるに至った。

私はまた別に、宇和島人の土居藪鶯氏は兼て知り合いで、これもその頃から俳句を始めたと聞いたので、この人の在勤している、横浜へも行って共に句作し、そこの宗匠に見てもらう事もしたけれどもまだ何らの標準も立たず月並的の句も作るので、子規氏が松山から帰って来ても余り取ってくれない。そこで私は多少憤慨心も起ったので、兼て子規氏から聞いていた蕉門の猿簑さるみの集が句柄が最もよいという事を思い出して、もっぱらこの集を熟読して、その末数句を作って子規氏に見せた。処が意外にも氏が賞讃して、これはいずれも振っている、どうした訳かと聞いたから、猿簑を熟読した事を話したら、氏もそれで判ったといって大いに笑った。それ以来は、寄宿舎の俳句仲間よりも私が最も氏に信用せらるる事になって、私もいよいよ得意になって句作をした。この年子規氏は日本新聞の創設に際して、その文芸欄を受け持つ事になった。これは谷干城たてき氏が我同胞が西洋にのみ心酔して日本という事を忘れるのを憤慨して、それを覚醒するために発刊したので、名さえも日本と名づけて主筆としては、陸羯南くがかつなん氏を用いた。この羯南氏と共に、司法省法律学校の放逐生たる同郷の加藤恒忠氏は子規氏の母の弟である関係から、羯南氏が早くより子規氏を知っていて、この新聞で充分にその才能を発揮せしめたのである。そこで子規氏も得意になって俳句の選をする事は勿論、俳論を縦横に書いて月並派を攻撃して、ここに始めて我々が俳句の今日あるを致した。この影響は一両年経つか経たぬに全国に及んで、新聞という新聞は、俳句を掲げざるなく、書生仲間には到る処に子規風の俳句を真似する事になった。而して子規氏は、好んで旅行もしたものであるが、この歳末に新聞社から切符を貰ったというので、私を促して日光や武州高雄山の吟行を試みた。

その翌年の一月であった、子規氏が私の宅へ来て、昨夜は非常に面白かった、それは椎の友会というへ行って運座をやって、遂に徹夜したとの事である。そこで聞くと、椎の友会は、伊藤松宇しょうう、森猿男さるお、片山桃雨、石山桂山、石井得中の五氏の顔触れで、月並家の運座には、宗匠のみが選者となるのを改めて、座中の共選という事にしているそうだ。而して私にも次回には出席せぬかと勧めるので、私も直ちに承諾してそれへ出席した。而して運座は一層面白いものだという事が判った。実は以前寄宿舎仲間で俳句を作るのは、唯題位を極めて置いて、各々勝手に句作して、それを互に批評するという位に止まっていた。早く多数の句を作る事を競争してせり吟などと称えていた。それが運座という事に改まって、かつ互選であるという所から、各々多数の点を得るのを興味として、その運座を幾度となく催し、今度は誰れが勝ったとか負けたとかいっていよいよ面白くなり、遂に徹夜をする事にもなるのである。そこでこの椎の友仲間と寄宿舎従来の仲間と、なお私が側では土居藪鶯氏の外同じ宇和島人の二宮素香氏同く孤松氏等をも引込み、また子規氏は大学の手合で大野洒竹氏藤井紫影氏、田岡爛腸(嶺雲れいうん)氏などをも引込み、その一同が会する時はなかなか盛んなものであった。また或る日の事、中根岸の岡野の貸席でこの大会を催している最中、浅草鳥越とりごえ町方面に火事が起って、それが近火だからといって、森猿男氏と片山桃雨氏は俄に帰宅した。それからこの大会も済んだ頃まだ火事は消えず、新築の中村座が焼失したという事を聞いたので、それでは猿男桃雨氏の宅も焼けたろうから見舞って遣らねばならぬといって、私が率先して子規氏や古白氏や松宇氏などと駈着けて見ると、幸に類焼はしなかったが、道具なども片付けて手伝いの人も出入りしていた。そこで例の見舞い客に振れ舞う土瓶らの茶碗酒を我々にも飲ませたが、我々はそこへ腰をかけたままで、もう火事の句数句を作る、また主人も作るという風で周囲の他の人々は呆れ顔をしていた。その頃の我々の俳句に熱心であった事はこの一事でも判るのである。

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

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# by li_japan | 2016-12-17 14:35 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝③ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

十八

この年から翌年頃へかけてが、私どもの俳句に熱狂していた盛りである。同人が互に往来して俳句を作り俳談を闘わすのみならず、例の各派を合した会なども度々催して、その頃は多くが書生であるから、家を持った私どもの仲間が順番に会席を引受けて、ちょっとした飯と酒とを出す事になっていた。就中宇和島人の二宮兄弟は熱心であったから、その弟の孤松氏宅や、その兄の素香氏を通して仲間に入った桜井静堂氏宅と、私宅では、頻繁に開会した。そうして子規氏は何といっても先覚で中心点ではあるが、この頃いうデモクラシー的に何ら先生顔もしない、そしてわれわれも先生らしくは扱っていないのである。これが我々中間の俳句の特色で、今でも新傾向派などが起ったにかかわらず、この態度は同様である。この頃であった、美術家で有名なる岡倉覚三氏の厳父が俳句をやられるので、私はその俳席へも出た。また牛込の宗匠たる岡本半翠氏は、予て私が文部省の参事官であった頃の筆生であったが、計らずもそれがいわゆる旧派の宗匠であった事を、同人中の土居藪鶯氏から聞いて、この関係からこの半翠氏宅の俳句会へも行く事になった。この会も或る特色は持っていて、従来の運座では或る一枚の紙に題を書いてそれに順次に句を書きつけて折り込んで行く例であったが、どうかすると前の作者の句を見て、自分の参考にするような嫌いもあった、そんな弊を防ぐために、一題ずつに状袋をこしらえて、それへ順次に句を書いた紙片を入れて廻す事にした。この方式は半翠氏門下の発明であったという事で、会名を袋組と称していた。私どもは頗るそれをよい方法だと感じたから、その後は伊藤松宇氏が始めた互選法と共に、この状袋廻しの事をも真似する事になった。その後この方法は久しく行われていたが、袋を順次に廻せば苦吟家に停滞される憂いがあるから、遂には席の中央へ各題の状袋を投げ出して置いて、出来た者がその中へ句を入れる事に改めた。そこで我々の俳句は子規の発達と共に発達したのでその後は半翠氏等の旧派連と出逢う機会もなかったが、遥か年すぎて、私が牛込方面を通っていたら、或る婦人がよび留めて、私は岡本の妻であるが、今先生の通られた事を夫が知って是非御面会したいというから立寄ってくれという、そこでその家へ這入って見ると、半翠氏は病床に横わっていて、聞けば肺病らしかった。それでも私と逢った事を喜んで種々の俳談を交した。なんだか心細く名残惜しいような顔をしていたが、際限もないから私はそこを辞して出た。その後一年ばかり経て、岡本の門人だという人が私の宅へ来て、我師はもう去年亡って、今年は一周忌であるから追悼の句を貰いたいといったので、私も以前の事を思い出して感慨にうたれたから一句作って与えて弔意を表して置いた事である。

右は後の話であるが、二十六年の末ごろ、私は旧藩主の久松伯爵家から旧藩事蹟取調という事を嘱托せられた。これは二十一年頃、先帝の思召しで、三条公と岩倉公との事蹟を調べて置くようにとの仰せがあったので、それと共に維新の際いわゆる勤王党であった旧藩主が、右の両家と共に事蹟を調べる事になって、その結果二百六十の旧藩主華族諸家もこの調べをする事に御沙汰があった。けれども元々持出す事件があるならば持出せというような事であったから、それを調べぬ家々も多かった。が、私の旧藩主久松伯爵家では熱心にそれを調べられる事になってとても家職では暇がないという事から特別に私に嘱托せられたのである。なお旧藩の頃家老から大参事を勤めてその後は立憲進歩党の老人株で居た鈴木重遠氏も先輩として加わる事になった。この調べをする事蹟の範囲はもっぱら、嘉永年間米国船の渡来より、明治の廃藩までというのであって、久松家から宮内省へ差出さるる事蹟はそれだけなのであるが、いっその事この機会に松山藩の出来た以後の二百数十年間の事をも調べて置きたいという事で、これも私どもの担任する所となった。そうして宮内省からの需めにかかるものを甲種とよび、その他の事蹟を乙種とよんで、共に材料を集める事になったが、残念な事にはかつてもいった如く廃藩の少し前に、三ノ丸が火災に罹って、藩庁の書類は悉皆焼失してしまった。そこでこの上は旧藩地について個人の家々に残っているものを探し出す外はない、尤もこれらも、明治の初年に久松家から当時の老人連に嘱托して旧藩代々の君侯はじめ臣下や人民の特種な事蹟を調べさせられたものが、松山叢談という三十巻ばかりのものになっている。けれども惜いかな昔し気質の老人の手に成ったので、君侯の事歴こそかなり詳いけれども、その他は多く個人的の特種な行為が列記されているというのみで、肝腎な藩の政治法令とか民間の農業商業其他社会方面の事は殆ど全く調べられていない。そんな事から、この度私が嘱托を受けて見ると、それらの洩れたるものをもなるべく調べたいと思って、そのために松山へ赴く事になった。松山には従来久松家の松山方面の家政を取扱う人々が居るので、まずそこへ行ってこの度の取調の事件について充分に話もしていよいよ着手せしむる事になった。またこの取調のため、松山でも残りの老人二、三に嘱托者が出来た。けれども明治の初年と違って偶々あった材料も子孫の世となっては、反古にしてしまったものもあって、辛うじて集ったものも充分なものでなかった、がまずそれらを謄写するとか貰い受けるとかを、松山の掛員へ托して置いて、そして私は帰京した。この松山行きは十三年に出京してから二度目であったが、段々と知人も物故して、今昔の感も尠くなかった。

この松山行の途中私は京都へ立寄った。それは同郷の河東碧梧桐氏、高浜虚子たかはまきょし氏が子規氏の帰省の機会から俳句を作り始めて、その後大学へ入る目的で京都の第三高等中学校の生徒となっていて、一層俳句を作って、二人ながら発達も速かだという事を、兼て子規氏から聞いていたので、私も懐しく思ってそれを高等中学校前の吉田町の下宿に訪ねたのであった。尤も汽車に乗る事を急いだので、僅か半日ばかり俳談をして、互に句作などをもしただけで、直に二氏と別れた。それからまた帰途にはこの京都へ立寄ったが、その時は二氏には逢わないで、これも同郷の俳人で岩崎宗白氏というを訪ねるためであった。この人は松山城下で錦雲舎という菓子屋の主人であったが、茶事も裏千家の高弟で、また俳句は大阪の芹舎の門人であったので、廃藩後は京都へ住居して水力応用の紡績機械を販売する、傍ら茶と俳諧の宗匠をも兼ねる事になった。そしてこの春頃東京へ来た際私の家には藩の頃出入した関係もあり、殊に俳句を始めた事を聞込だので、訪ねて来て、また私もその旅宿へ行った。そうして俳句についても談話を交したのみならずこの頃まで連句という事は、私どもの仲間でも余りせなかったのを、この宗白氏の口授でその方式を知り、終に席上で両吟をした事がある。そんな関係でこの松山の帰途には宗白氏を訪ね、翌日は氏を連れて嵐山辺へ遊んで、彼の二丁登れば大然閣へも詣でるし、少しばかり大堰川を舟で遡っても見た。その後帰京して後ちもこの人との俳事往復は時々する事になった。なお松山滞在中、宇都宮丹靖氏とか黒田青菱氏とかいう俳人にも出逢った。この丹靖氏は売卜業で八十以上の老人でもとよりいわゆる旧派である。青菱氏は松山では旧家と称する売薬商で、これも旧派たるは勿論だが、外に観世流の能楽も学んでいて、郷里では多くの人に知られていた。それから若手では村上霽月せいげつ氏もこの頃から俳句を始めて、これは以前に東京へ出て書生をしていた頃、私が学校の証人に立っていた関係から、子規氏よりも私に俳句を示されたのが始まりで、度々往復をしていたから、この人とも出逢って俳句を作り逢った事がある。

ツイいい洩らしたが、二十二年に私は三男和行を挙げた。

ここでちょっと話を挟むが、子規氏の俳句を始めた頃は主として芭蕉一派の俳句を標本としていたのだが、椎の友会席上で蕪村の句の巧いという話が出た。けれどもそれは俳句題叢に載っているものの外見ることが出来ない。蕪村句集を探したけれどもちょっと手に入らない、ないというといよいよ見たくなるので、終に我々が申し合って、もしも蕪村句集を最初に手に入れたものには賞を与えるという事を約した。間もなく片山桃雨氏が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出したので、我々から硯一面を賞として贈った。後で聞けば大野洒竹氏の手にあったのを桃雨氏が借りたのであったそうな。しかし蕪村の多くの俳句は相変わらず見る事が出来なかった。そこへ或る時村上霽月氏の報知では、松山の古本屋で蕪村句集の上巻を手に入れたという事だ。私どもは驚喜してそれを貸してくれといってやったが、霽月氏も現本を貸すのは惜しいと思ったか、別に自分が写したのをさし越した。そこで一番に私がそれを写す、子規氏も次に写す、なお椎の友連へもそれを見せた。そうこうしているうち、誰かが告げるに、芝の日影町の村幸店に、蕪村句集の上下揃ったものがあるとの事であった。私は聞くとそのまま人力を雇って馳け付けたが、途中でももしそれが人手に渡りはせぬかと気遣いながら、その店へ行って聞くとまだあるといったので、実に天へも登る嬉しさであった。価もその頃では奮発であったが、二円で買い取って、帰ると直に披読し、その日に子規氏へも報知する、また椎の友会へも段々と告げて、我々一同がここに始めて久渇を医したのであった。が少数ながらも、最初に探し出したという賞は桃雨氏に帰していたから、私はもう賞を貰うことは出来なかった。けれどもその大得意は賞の有無を考えるどころではなかった。そうしてその下巻を直に写して松山の霽月氏に与えて、さきに上巻を見せてもらった報酬をした事である。ついでにいうが、蕪村句集を我々仲間がかく競い読むという事が、段々と俳人仲間にも広がって、世間へも聞えると共に、終に神保町の磊々堂が旧版を再版する事になった。聞けばこれは大野洒竹氏が、私が得た少し後にまた一部を得たのを、堂の主人佐藤六石氏が乞い取って、それを再版に付したのであるそうな。それから少し経って大阪の書肆が土蔵の奥に捨てて置いた蕪村句集の旧版を発見したので、それを刷ったのが世間に出たから、いよいよ蕪村句集は誰れにも見られる事になった。私は今いった最初発見の句集を持っていた上に、別によい初刷本のあるという事を村幸から知らせて来たので、終に若干の価を増し前のと交換して、今も持っている。これには表題に上編と記してあって、月渓の跋文に蕪村の一周忌にこの集を出したのだが、なお翌年の忌には次編を出すといってある。それが下編に当るのであろうけれども終に発行せられずに終ったから、その後刷る版本には表題の上編という文字とこの跋文とは除かれている。なお京阪の俳人仲間が金福寺で蕪村忌を営む事になった頃、これも大阪の或る書肆の蔵の奥にあったという事で、まだ上木せない蕪村の句稿を、水落露石みずおちろせき氏が持ち出した。それが出版されたのが、現今も行われている蕪村句集の拾遺である。

今いった碧梧桐虚子の二氏はその後京都の高等中学校の改革で仙台の第二高等中学校に移ったが、間もなく、もう大学校などへ入るのは面倒だという事で、自分で退学してもっぱら東京で文学を研究する事になり、就中俳句は子規氏の下で益々盛に遣る事になって、終に子規氏の左右の腕となるに至った。そこで私は最初こそ子規氏が、無二の相手であったが、もうこの頃は碧、虚二氏が成り立ったので、自然に老人役という側へ廻って、世間からも子規氏と私は芭蕉と素堂の関係だといわるる事になった。けれども子規氏の宅の俳句会は勿論、蕪村の輪講など催す時は私は必ず出席して、一番にお喋しゃべりをしていた。尤も私は中途で俳句の作をやめていた事もあったが、間もなく死灰再び燃えて相替らず作る事になったのみならず、子規氏派の俳句の普及すると共に、私も段々と雑誌や新聞の選者を頼まれる事になった。就中ホトトギスは我々の機関であったために、選者たるのみならず、種々の文章なども出していた。

このホトトギスだが、これは二十九年頃であったろう、郷里の松山で柳原極堂やなぎはらきょくどう氏が久しく俳句を作っていて、また海南新聞の記者をも兼ねていたから、その印刷機械を利用して、子規氏の俳句を宣伝する雑誌を始めた。そうして子規の名の関係からホトトギスと称した。そこで子規氏始め、碧虚両氏や私もそれへ句や文章を出す事になっていたが、惜しいかな地方の隅で発行される雑誌は見るものが少ない。辛やっと二十号まで出した頃、極堂氏が、せめて三百部売れるなら収支が償って継続されるが、それだけ売れぬから、もう廃刊するといって来た。そこで虚子氏はそれなら自分が引受けて東京で発行して見ようといい出したが、子規氏はそうなると全く自分の直轄となるので、責任が重くなる、万一にも読者が少くて維持に困難を生じて廃刊にでもなると自分の恥辱だからといって、容易にそれを許さなかった。しかるに虚子氏は信ずる所があって、熱心にその継続実行を主張して、経済万端は凡て自分が引受けるといったので、子規氏も遂に承知する事になった。これがホトトギス第二巻の一号である。そうして予想以上にこのホトトギスは購読者も出来て、松山では三百を出し兼ねたものが、三千部も出る事になって、虚子氏が鼻を高くすると共に子規氏も大いに安心した。そうして子規氏はかような編輯上の意匠にも富んでいたから、購読者は益ますます喜んで見る事になったので兼て日本新聞やその他の各新聞で子規氏の俳風を広めていたが上に、この機関雑誌の広く行わるると共に益々我々が俳風は世間に普及する事になった。そこでこの頃小説で有名なる尾崎紅葉氏や、弁護士で有名なる角田竹冷氏や、御伽小説専門の巌谷小波いわやさざなみ氏や、法官の滝川愚仏氏、また森無黄むこう氏岡野知十おかのちじゅう氏などが連合して、一箇の俳社が出来た、此方でも俳声という雑誌を出して、後には卯杖と改称した。その頃伊藤松宇氏は久しく静岡地方の富士製紙会社に従事していたので、我々との交通も隔ていたが、再び出京して深川の倉庫会社に関係する事になったから、そこで元来なら、我々のホトトギス仲間へ加わるべきだが、どうかしたはずみで、秋声会の仲間となってしまった。が、相変らず私は勿論子規氏なども交際はしていたのである。

ホトトギス仲間では、少し以前に五百木飄亭氏が徴兵に出て兵隊生活をした関係から、同じ兵隊中で佐藤肋骨氏を俳句仲間に引入れ、また日本新聞に入って来た関係から佐藤紅緑石井露月の二氏も我々仲間へ加わった。また福田把栗はりつ氏も俳句を始めたが、これは漢詩の方が更に得意であった。

私がそもそも最初に雑誌の選者となったのは、文庫であって、これには選句の中へ簡単なる評語を挟んだので、世間では頗る受けたが、余りに口合的になるので、子規氏は機嫌がよくなかった。また太陽に同人の俳句を出す事も、その頃からで、それは編輯者の泉鏡花氏がよく私に俳句を見せた関係からである。その後岸上質軒きしがみしっけん氏等の人々が替わってこれが編輯を担任する事になってもやはり私の俳句欄はそのままにして終に今日までも継続している。なお万朝報も一週間一回の俳句欄の選者を托せらるる事になって、いわゆる旧派の老鼠堂永機えいき氏、この人が亡ってからは其角堂機一きかくどうきいち氏と共に引受けて、これも今に継続している。その他東京の新聞雑誌は段々と多く関係することになって、多少の出入変遷もあるが、今も新聞では万朝の外、読売新聞と中外商業新報、雑誌では大陽の[#「大陽の」はママ]外、二十種余に関係している。尤も文庫は早き以前に廃刊してしまったが、この雑誌は小国民の改題で、その頃はかようなものに載せる文学的のものは、俳句の外は凡て大家と認めらるる者に限る例であったのを、文庫のみは主としてまだ名を知られない若手の作でも、よい者は載せることにしたので、新進の青年は多くこの雑誌の下に集って、それが発達して今日の大家となっているものも少くないようだ。この事はこの文庫発行者の山県悌三郎やまがたていざぶろう氏の功といってよい。

二十七、八年に亘った日清戦争の時、五百木飄亭氏は兼て医者の開業免許を取っていたので、看護卒となって服役していたが、その以前より、日本新聞の記者を兼ねていたので、それに報ずる戦地の状況が、他の報告よりも特色を帯びていたので多くの読者には歓迎されていた。そんなことからも、また自分に期する所もあったので、子規氏は病身であるにかかわらず、戦地へ行って見たくなって、それを陸羯南氏にも話したが、羯南氏は子規氏の病体を更に悪くする事を気遣って容易に許さなかった。が、再三熱心に需もとめるので、終に日本新聞社から特に派遣する事になった。が、金州方面に達した頃もう戦争も終りを告げていたので、この上はせめてもとまだ充分に服従せないで戦争をしている台湾の方面へ行こうと思って、下の関まで帰った時、再び大いに喀血して、とても台湾行きは出来なくなって、それから神戸の病院へ入ったが、一時は危篤という報もあったので、既に東京に来ていたその母刀自や、虚子氏は看病に赴いた。幸にその時は快方に向って、それから郷里の松山で保養する事になった。そうしてその後小康を得て東京へ帰ったが、その頃から段々と行歩が不自由になって、多くは床に就いていた。尤も時々は車で外出する事もあったので、虚子氏の住んでいた猿楽町の宅へも稀には来た。或日の事子規氏が来た、闇汁会を開くからといって来たので、私も行ったが、闇汁とは、出席者が各々或る食物を買って来て、互に知らさずと厨の大鍋に投げ込む、それが煮え立った頃席上へ持ち出して、銘々の椀に入れて食う時、色々の物が出て来る、肉とか野菜とかの外、餅菓子やパンなども浮み出て来るので、いよいよ興を催おして思わず、飽食するにも及んだ。これが他の同人仲間にも伝わって、その頃はよく諸方で闇汁会を開いたものである。附ていうが、この闇汁は私の旧藩で昔から若いものが時々したもので、それは出席者が闇の夜に網を携えて野外の小川へ投じて、その網にかかったものを何か判らず取帰って鍋の中へうち込む、それから喰おうとすると、下駄の抜け歯が出て来る、蛙の死んだのが出て来る、その他さまざまの汚いものが出て来ても、それを構わず喰うのを勇気があると称して、互に興じ合ったものである。そんな野蛮な事も出来ないがやはりその名を取って、それに似た事をしたのが、即ち我々の闇汁会であった。

我々の俳句会は久しく子規氏の宅で開いていたが、氏の病もよくならず、余りに大勢の集るも如何という所から、終に虚子氏の猿楽町の宅へ移して、ここで開くことになった。またホトトギスの編輯や発行は最初より、虚子氏の宅であったが誰れか編輯等のよい手助けはないかと求むる際、子規氏が地方からの出吟者で傑出した三人を見出した。それは東京の第一高等学校(この頃中の字を取った)数学教師の数藤五城すどうごじょう氏、法官で居て最初東京に居て台湾千葉と転任した、渡辺香墨こうぼく氏と、今一人は大阪の松瀬青々まつせせいせい氏であった。この青々氏は別に大した業務もなかったというので、それを呼び上せて、右のホトトギスの編輯を手伝わせる事になった。その後青々氏は他より一層発達して、殊に達作で、郭公一題二百句などという多作をして我々を驚かせたが余り長く東京には留らないで、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木月斗げっと氏なども名を出した。尤も露石氏は先年亡って、月斗氏は今も同人雑誌の主筆並に経営者となっている。また石井露月ろげつ氏は、元々医者になる目的で、その学費を弁ずるために日本新聞社に入っていたのであるから、その後開業免許を得ると直に郷里の秋田県へ帰って、女米木めめきの山中で医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者を療養するをこの上もない楽みとしている、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して、俳星という雑誌まで出していたが、この頃は心機一転したものか、それを出す事もやめてしまった。

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# by li_japan | 2016-12-17 14:32 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝④ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

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十九

今の如く青々氏や露月氏の事をいったついでだから、なお遡って、子規氏と共に俳句を作り始めた古い人々のこともいって見よう。その頃最も才気があって、現代の文芸主義にも早くより通暁していた者では藤野古白氏がある。氏は子規氏の従弟で、早稲田の学校では後に有名になった島村抱月氏と同級であったのだが、夙はやくより個性とか自我とかいうような意味で文芸を扱うことに気が付いて、それを俳句にも応用した様子が見える。そうしてその頃或る家の女子を思い初めて、それが他に嫁したという失恋から、一時狂的の行為もあったが、再び心を静めて専門に文学を研究して坪内逍遥氏などにも愛せられていたのであるが、余りに抱負が高尚で卒業の論文を書いても書いても意に満たないで、卒業はさせられたものの、また再びふらふらとした気分になった。その時出来たのが「築き島の由来」とかいう劇の脚本で、青年松王が自ら求めて人柱になるという、それを自分にも実行したのが彼のピストルの自殺である。氏の湯島の寓所は私の宅と接近していたから、知らせと共に駈け付けて大学病院へ入れた後、父の漸氏が出京するまでは私は昼夜附添っていた。この看護には碧梧桐氏や虚子氏も加わったのである。しかし二発の弾の一つが脳の中枢を破ったのであるからあえなく落命した。子規氏は病床に居て、見舞う事は出来なかったが、従弟でもあるから哀悼を表する傍ら、その作品を集めたものが即ち古白遺稿である。

それから新海非風氏だが、これは家庭の境遇から余り学問はしていなかったが、天才的で俳句を作る才は時々子規氏をも驚ろかした。いわゆるせり吟にも多く作って多くの佳句を見せていた。そうしてこの人も古白氏と共に軟派文士肌で別に資力もない癖に吉原通いをして或る妓と馴染を重ねたが、間もなくその妓が年明けとなって、身を任そうと思う男が二人あったそうだが、終に非風氏の方へ籤くじが落ちて、その後は同棲することになった。この妓の家元は江州人で、普通なら年明きの娘も資力のある婿を持たせたいというのだが、最初余義なき金策に、娘を苦界に沈めたことを哀れむと共に、娘の好む婿ならばといって、その資力の有無を問うような貪欲心はなかった。それで、非風氏もなるべく努力して一家を立てて、函館の新聞記者なども勤めることになったが、早くより肺病に罹っていたので、後には細君の実家近くの京都辺りへも流寓して、終に病死した。そうして、あべこべに舅の家から多少の救助を受けた位のことであったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこでも句会を開いた事があったが、その後地を隔つると共に非風氏とはただ消息ばかりを知るのみになってしまった。

五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と称することも出来ず、それから上京して私の寄宿舎へ入ったのだが、年齢よりは老成していたために、推薦せられて舎監にもなった。そうして読書の才もあって、俳句がうまかったのみならず随分漢籍をも読んで、私が未だ読まぬ書を読んでいたのに驚かされた事もあった。その後日本新聞社へ子規氏の後から入って、筆を執っているうち、徴兵の乙種であったので日清戦争に従軍した。尤も医学の素養があるため看護卒となって、戦地の報告を日本新聞へ掲載して異彩を放ったことは前にもいった通りである。凱旋後も長くこの新聞に従事していて、その後は医界時報を田中義之氏と共に経営していたが、終にそれを田中氏のみに任せ今ではいわゆる高等浪人となって朝鮮合併や支那事件などにも野にあって努力していることは誰も知る通りである。

また勝田明庵氏は他に較べては余りに俳句に熱心でなかったが、それだけ政治や経済の方面には早くより研究をして、寄宿生中でも他の者は暑中休暇などには郷里へ帰省するのだが、氏に限っては見学のため知らぬ地方を巡回して、其所々々の殖産やその他社会的の事を調べて、帰舎すると茶話会席上でそれらを報告するのを得意としていた。そんな風故法科大学を卒業すると共に大蔵省へ出身して、函館の税関長となりまた本省の局長から、次官に進んで終に大臣となった。しかし今でも時々は俳句も作っているようだ。

以上は寄宿舎で俳句を作っていた同郷人の主なる者だが、その他では、後に自分で婦人科病院を起て、また俳事に関する蔵書に富んでいた医学士の大野洒竹氏、新聞上で筆を執って一時文名を馳せていた田岡嶺雲氏、この二人はもう亡くなった。文学の専門家で、傍らいろはたとえの如き俚諺を集むるを楽みにしていた、藤井紫影しえい氏は、今も京都大学の教授となっている。これらは誰れも知っているから私が説くまでもない。また土居藪鶯氏は、氏の郷里の宇和島の郡長となり、それを罷めて、同地の電気会社の社長となって熱心に努力していたが、惜いかな胃癌にかかって先年亡くなった。二宮兄弟では、兄の素香氏は元来病身であったが、これも帰郷して宇和島の高等女学校長の勤務中に、藪鶯氏よりも先きへ亡った。その弟の孤松氏は夙くより山県公爵に知られて日清戦争には公爵に附いて従軍したこともあるが、その後は自分で新聞や雑誌を経営したり、朝鮮方面の或る事業に手を出したりしていたが、これも近年亡った。この人の主幹となって経営していた雑誌「世界」は、後に「我邦」と改称し、なお藤花学会という愛国主義鼓吹の団体も今は存否如何を知らぬが、孤松氏尽力の形見であった。また椎の友会連中では、伊藤松宇氏と森猿男氏は、地方から帰って来て今も俳壇で先輩となっている事は誰れも見る通りである。その他片山桃雨氏と、石山桂山氏は早くより俳句を止めて、今は消息を絶っている、石井得中氏はこれも亡くなったが、末路は最も窘窮きんきゅうしていて気の毒であった。以下話が立戻って子規氏の事になるが、病床に臥しながらも、俳句に関する研究や努力はなかなか旺んなもので彼の蕪村句集の輪講もその宅で始める事になって、我々どもも興味をもって毎回意見を闘わした事である。尤もこの輪講はやはり互に句作すると同じような興味主義で遣るのだから、普通の輪講などの如く予め下調べなどをせない。それで句に依るとちょっと判らぬことなどもあるので、或る時私が、これからは少し下調べをして来ることにしょうといったら、子規氏は憤然として「先生そんな月並をしちゃいけませぬ」と喝破した。私もなるほどと合点していよいよ無頓着に講義することになった。例えば、座中に、幾人か並んでいて、輪番に講義をする、けれども、我が講義に当る句は知れていても故意と見ない、いよいよ順が来て、その句を朗読し終るや否直に解義する。即ち朗読中にその意味を考えるのである。あたかも昔の題を得てセリ吟すると同じような様子である。が、こうして行くと句の趣味には、むしろ活き活きしたものを捉えてちょっと興味もあるものだ。誤っていたことは他から正す、それに不服があれば飽くまで強弁する。そうして故事来歴等は、私が老人だけに比較的に多く知っていたから、これは得意としてそれを説き聞かせる。要するに心易い同士の議論だから、負けても勝っても結局笑いに落ちる。他の詞でいえば、楽屋落ちの蕪村の句話しであったのだ。けれどもそれをホトトギスに臆面もなく載せた結果は、読者から時々誤謬を指摘したり、あるいは他の意見を報知して来る。これも我々の心得にもなり、また興味であるから、一々それは次号へ載せていたのである。しかるにこの蕪村輪講がその後単行本となり、世間でも多く見ることになったので、更にわれわれの講義に対して非難や注意やあるいは悪口を寄せらるる者さえ出来た。なお蕪村の句が普通教育の教科書へも載ることになったので、学校の先生の参考としても我々の蕪村句集輪講が用いらるることとなった。この点などは私どもの殊に恐縮する所である。けれども元々内輪の団欒の雑談的のものであったのだから、こう世間的のものとなるのは、われわれの意外のみならず、地下の子規氏もさぞ苦笑していることであろう。就中この頃「蕪村夢物語」とかいう或る人の著書が出て、この我々の講義を非難もし是正もして居らるるそうだ。これは今更ながら我々がためには良友だと思っているが、しかし我々と意見を異にする点も少くなかろうから、それらの弁解は私が他日あたるつもりである。聞けばまだ、春の部と夏の部ばかりだそうだから、多忙な私はいっそ満尾して後それをやろうかとも思っている。かように興味中心でやった蕪村講義が、真面目な批評に上ることになった、その恐縮の言い訳でもないが、近来ホトトギス発行所の俳談会では、引続いて小学、中学の教科書に載っている俳句の批評に従事している。これも他の人は知らぬが、多忙なる私はやはり下調べもせぬがそれでも蕪村句集の輪講で後悔しているだけには、なりたけ真面目に批評して、今度こそ当該先生の参考にもしたいと心掛けている。これはせめてもの罪亡ぼしであろう。

またぞろ話が後の事に走ったが、子規氏の生前は、病苦を忍びながらも和歌の方面にも研究を始めて、古今集以下は月並的に落ちてしまった事を発見して、万葉以前の風を主張し、それと共に、修辞も万葉時代のものを多く用いた。そうして、これも日本新聞において意見を吐いたのでこの子規氏の説に共鳴して指導を受ける者も段々と出来た。その主なる者では、伊藤左千夫氏、森田義郎氏、香取秀真かとりほずま氏、蕨真一郎氏、長塚節氏、岡麓ふもと氏等である。また赤木格堂かくどう氏と五百木良三氏とは俳句の外この和歌仲間へも這入った。また子規氏は写生文と言うものをも始めたが、この方面では坂本四方太しほうだ氏、寒川鼠骨さむかわそこつ氏などが最も子規氏に見出されていた。そうして、碧梧桐氏や虚子氏も俳句の外この写生文をも盛んに作って、就中虚子氏は現今でも文士中で他人の追随し得ぬ或る技量を現わす事になった。この文章会と和歌の会とは子規氏の宅では度々開かるるのであった。その他子規氏の名の高くなると共に、漢詩家や、書家やその他の文芸家が時々出入する、居士は一々歓迎して意見を闘すという風なので、下女も遣わぬ母刀自と妹さんは、看病の外これらの接客の用向きだけでも昼夜多忙であったのだ。

近年は碧梧桐氏がいわゆる新傾向の俳句を始めてなかなか多くの共鳴者を得ているが、一体五七五調の俳句と異った口調では誰れも知る如く、芭蕉の頃の「虚栗」蕪村の頃の柴田麦水を中心とした「新虚栗」もあったのみならず、子規氏生前の我々の中でも、一時は随分試みたのであった。それは碧梧桐虚子両氏が若い元気で重もに鼓吹したのである。私は老人だけにそれが不同意で子規氏にも話したが、氏は若い者には何でもかでも勝手にやらして置くがよいといって笑っていた。がこの変調は子規氏も時々試ることになり、私も思わず釣り込まれて幾らか作った。即ち我々仲間で始めて出した「新俳句」の巻頭にある私の句の『百年にして天明二百年にして明治の初日影』もその結果である。がこの変調は一時的のもので、碧、虚二氏も再び五七五調に立戻ってそれで子規氏の生前はそのままであったのだ。

まだ何かあるかも知れぬが、もう子規氏の終焉の話しに移ろう。前にもいった如く、病床ながら、俳句のみならず、和歌にも写生文にも、昼夜研究と鼓吹とに努めた末が、結核性の病毒は脊髄病となって、臀しりには穴が明いて、そこからも排泄物もするという次第で、いよいよ苦痛が加わると共に、堪らぬ時は号泣する、この号泣するのが、苦痛をまぎらす事になるといって、周囲を憚らず、子供らしい泣声を発したが、これも氏の特色が現われている。それから重症となってからは、碧虚二氏は勿論、鼠骨、義郎、秀真の諸氏なども、昼夜輪番に身辺に詰めて、母氏妹氏と共に心を尽して看護した。そこで私だが、俳句こそ子規氏に啓発されて多少の趣味を解し、段々と俳句の大家顔もする事になったが、ありようは感情よりも理性を尚び、智識欲の深い人間だけに、どうかすると子規氏と意見の合わぬこともある。また趣味の上にも氏の斬新を好むに反し、古典的に傾く癖もあるので、時々氏と衝突を起す、そうして氏もなかなか熱心に弁ずるが私も負けぬ気で弁ずる、これは従来珍らしくもない、事実であったが、氏が病苦の増し気短くなると共に一層この衝突を起しやすい。そこで私も気付く所があって、陰では氏の病状を気遣うけれども、碧、虚諸氏などの如く日々近寄る事をやめた。また子規氏が希望で母刀自や叔父の加藤恒忠氏の忠告するにもかかわらず、沼津の海岸へ病躯を転地せんといい張った時も、私はそれでは俄に医師の救護を得るにも不便だからといって、氏に益々機嫌を損う事にもなったが、氏といい私といい、その親みは、最初の監督者と被監督者とがあべこべに俳句を教えてもらったその時より何も変りはないのである。ちょうどその頃氏は着色の絵を描く事を始めたので、私は密かに形見を貰う心持ちで、何か描いてくれといって、書画帖を送った。氏はそれに芍薬の画と俳句二つを認めた。そうして氏もこれを形見にするというようなことを書き添えている。そうこうしているうちに卅五年の九月十八日であった。氏がいよいよ悪いとの報知があったので駆け付けると、もう息が絶えていた。実は傍に附いている母妹及虚子氏さえも臨終には気がつかなかったという位で、つまり最近に苦んだ痰が喉につまったのが致死の原因となったのである。一両日前の句に「痰のつまりし仏かな」が讖しんをなしたのである。それから一同大騒ぎで、親族も知友も庵に集って、後事の営みにかかったのだが、子規氏の遺志では余りに諸方へ報知する事などは月並として厭うだろうというので、新聞の広告は勿論その他にも広く報知をせなかった。そうして、埋葬地はどこらがよかろうかと、詮鑿したが、普通の寺院の墓地よりも律院の墓地が清潔で、子供の襁褓むつきを干す梵妻も居まいからというので、終に田端の大龍寺を卜した。これは私と碧梧桐氏がまず行って、見分したのであった。それから埋葬の日は余り世間へ知らせなかったにもかかわらず、葬会者はなかなか多く葬列も長く引続いて、この人だけの名誉ある終りを飾った。その後墓石の文字は陸羯南氏が書いた。この羯南氏は隣家に住んでいたが、永年特に懇情を尽して万事に注意するし、日本新聞関係としても、病苦で筆を執らなくなったにかかわらず、以前の如く報酬等を交附して、前後共に非常の好誼を寄せられたことである。

子規氏の死んだのは三十六歳であったが、俳句その他の事業は病気に罹って後の仕事で、即ち病苦中の産物である。そうしてその見識や文才や刻苦勉励の事実は多くの人の尊敬を得て、誰れからも侮蔑や悪言を受けなかった。尤も陰では異説を唱える者もあったろうが、正面では氏を攻撃する者はまずなかったように思われる。しかるに高知の人で、若尾瀾水氏というが、最初は子規氏の句会にも出て我々も知っていたのだが法科大学を卒業した頃であろう、但馬で発行した、某俳誌上に長文を載せて子規氏を散々に罵った。これは何時か子規氏を訪ねた際、氏の態度が倨傲であったという事が原もとであって、かような事に及んだのらしい。しかし瀾水氏も正直な人間で、その後岡野知十氏に対しても、最初門前払いを喰ったという怒りから、或る雑誌で散々攻撃したが、一度知十氏に歓迎されたので、忽ち角を折って、反対に賞讃する事にせなった。しかるに惜いかな、子規氏は生前に氏と握手して旧交を復さずにしまった事である。爾来瀾水氏は久しく俳句をやめていたかと思うが、最近郷地の高知で「海月」という雑誌を発行する事になって、もともと正直を知っている寒川鼠骨氏も何か寄与する所があり、また私も輪番の俳句選者を担当する事になっている。

子規氏の病苦が甚だしくなっては、日本新聞の俳句欄に関しても怠り勝ちとなったので、代理として赤木格堂氏に選句をさせた。そこで子規氏の晩年は両腕であった、碧、虚二氏よりもこの格堂氏に意を嘱する事が深いのだと思わしめたが、格堂氏は反ってそれを迷惑に思い、自分は俳人として起つのは志でないといって、間もなく日本新聞の選者を断り、その後は碧梧桐氏が選者となって数年継続していたが、陸羯南氏が日本新聞を他の人に譲る事になって、暫くは現状のままで居たけれど、羯南氏に代って主筆となった三宅雪嶺せつれい氏やその他の人々は、或る事件から袂を連ねて、日本新聞社を退くこととなった。この時碧梧桐氏も退社して、終に現今の「日本及日本人」の俳句欄を受持つ事になった。尤もこの雑誌はその以前の日本人時代から私も俳句欄を担当していたのだから、改称して大雑誌となると共に、俳句欄は、私と碧梧桐氏と二人で各おのおの別に担当する事になって、保守主義欄と、新傾向欄とのあることは誰れも知る通りである。それから日本新聞の方の俳句欄は角田竹冷氏が担当する事になっていたが、同新聞は段々と昔の如く盛んならず、また竹冷氏も彼の世の人となってしまった。

そこでわれわれの俳句はどうかというに、子規氏の生前こそ、われわれ仲間も、大体の句風は統一されていて、一時碧、虚両氏が唱えた変調は間もなく跡を絶ったのであったが、段々と年を経るに随って、四方太氏の如きは全く俳句をやめるし、虚子氏は、写生的の文章専門となって、ホトトギスこそ経営すれ、俳句は全く擲つ事になった。それから碧梧桐氏は別に新傾向の句風を起す事になって、これに属する者に荻原井泉水おぎわらせいせんすい氏、大須賀乙字おおすがおつじ氏などが出るし、また西京大阪辺でも、大谷句仏おおたにくぶつ氏、水落露石氏等が響応し、なお碧梧桐氏が全国を巡遊するに至って、到る所にこの傾向を普及せしめた。その後一離一合して更に、新傾向派中にも別に一旗幟を樹たてる者があり、また殆ど旧調に復したものもあるに至った。これらの事は、私が別に申し述べるにも及ぶまい。それから、虚子氏も再び俳句を作って今日の如く盛んに後進を率いる事にもなって「ホトトギス」は相替らず元祖俳誌となっている、また氏の関係していた国民新聞の俳句欄は一時松根東洋城まつねとうようじょう氏の担当になったが、この頃は虚子氏の担当に復している。

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

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# by li_japan | 2016-12-17 14:31 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝⑤ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

二十

余りに子規を中心とした、俳句の話ばかりになっていたから、これからは私の身の上について御話をする。私は人と違って旅行するのが面倒、否むしろ嫌いで、機会は随分あったけれども力つとめてそれを避けた。そこで明治十三年出京して以来、わが郷里の松山さえも、前にもいった如く廿二年と廿六年と両度行っただけである。しかるに、明治卅六年において長男の健行が前年を以て農科大学の乙科獣医科を卒業しこの年は宮崎県の農学校に採用されて赴任する事になったので、私もそれと同伴して松山に赴いた。その要件は主として松山の二番町に未だ小さく家屋と土地とを所有していたのを、段々と溜る負債償却のために売却する用向であった。この事は兼て妻の里方の春日寛栗に托して置いたので、松山へ行くと共に同家へ寄寓した。健行も附いて来て一両日逗留したが、これは宮崎へ赴いた。この時は私が俳句を始めてからの二度目の帰郷であったので、旧知の人々の外俳人仲間からも歓迎されて、句会に臨んだ事もある。そして村上霽月氏の如きは、この地の先輩で久しく交っていたから、その頭取として管理されていた農業銀行の別室で饗応を受け、また俳談もした。が、この頃は新聞や雑誌の俳事の関係も段々と多くなっていたので長く旅行する事が出来ないので、松山は僅か三日ばかりの滞留で急いで帰京した。そこでこの往途大阪にもちょっと立寄ったが、それは内国博覧会が盛んに開かれているという事を聞いたのでそれを見物する事と、その他は久しぶりで、松瀬青々氏や青木月斗氏や水落露石氏を訪うためであった。この博覧会に始めて電燈のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。また帰途には郷里の親友の由井清と、伊藤奚疑の二氏が送りかたがた京都見物をするといって、附いて来たので、京都へ廻って月並ながら例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って、南禅寺の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、この時に京都で始めて電車に乗った。これも東京よりは先鞭をつけていたのである。
翌卅七年は誰れも知る日露戦争が起って、我々どもの気分もなんだか緊張したのであったが、二男惟行は外国語学校の支那語を学んでちょうど卒業するのであったので、支那方面へ兵を出す必要上から、陸軍省が文部省へ掛合って少し早く支那語の学生を卒業させてもらいたいとあって、惟行も学校を出るや否、陸軍の通訳官となって従軍した。そして少将の山本信行氏が率いた旅団司令部附となったので、金州から上陸して旅順方面へ行った。間もなく海鼠砲台を我軍が占領したので、山本旅団長は副官を従えて砲台を見聞した。惟行も好事心から一緒に行ったが、前面の敵から狙撃されて、山本氏は弾に当って即死した。惟行も戎服の裾に弾が通ったが幸に怪我はせなかった。その後旅順方面で彼の穴籠りなどもして、砲丸の下に往来した末が、旅順の陥ると共にまた奉天から鉄嶺を越して、何とかいった地方までも従軍した。この通訳官は中途から辞職して帰った者も多かったが、忰は幾らか辛抱強いので、一度かなりな大病をしたのも押して務めて終に、出征軍の凱旋と共に帰朝した。一体惟行は私とは違って学問などするよりも、何か金儲けでもして成り立とうという野心を持っていたので、支那の在陣中も機会があれば、支那の有力者などとも交っていたのであるが、この凱旋して間もなく正金銀行に採用されて支那の支店へ行く事になった。そこで北京に居るのだから、支那人との交際も多くなり、一層支那語の研究もする事が出来た。そして支店長の実相寺氏等にもかなり愛されていたので、なおよい機会があらば何か一つの仕事を見付ようとしていたのであるに、支那人との交際には食卓を囲んで互に一つ器の食物を匙で喰い合うような事から、終に肺病の黴菌を貰った。尤我慢な奴であったから、なりたけ寝る事もせなかったが、終に勤務も苦しくなり、先輩からも忠告さるるので帰朝して、家庭で養生する事になった。けれども少しよいと、いかに止めても酒を飲む、外出しては何か割の好い仕事を求めようとする、そんな事で一時はいくらか回復しかけたのも、終に手戻りがして、卅九年の歳末には赤十字病院へ入る事になった。そして翌年の四月の桜の盛り頃に三十歳を一期として志を齎して黄泉に赴いた。私は前にもいった如く、明治廿年に三歳の楽女を実扶的利ジフテリアで失った。その頃はまだ哲学的の悟りも出来なかったので、なんだか非常に可哀そうで、悲しみが長く続いて、三ヶ月ほどは何物を見ても興味を惹かぬ位であった。しかるに、この惟行を失った時は、多少前途の望みもあった奴だけに、私は一層悲哀に沈みそうなものであったが、もうこの時は哲学的悟りがかなり出来ていたから、結局死という事は人間のあらゆる煩悶苦痛を免るる事なので惟行の如く早く世を去るのは、つまり厄介な人間生活の年明けである、息を引取るまでこそ志の遂げざる事を口惜くも思うが、死んでしまえば空々寂々で、楽しみのない替りに悲しみもない、今まで脳で働いていたエネルギーは宇宙に遍満せる絶体エネルギーに帰してしまったのである。そして私も早晩そうなると思うと、彼が先駆けしたのを羨しくも思った。そんな事で今度はさほど悲しみの感じも長く跡へは残らなかった。そこでこの惟行の屍とかつて死した楽女の屍は青山の墓地へ葬って置いたが、楽女の石碑は建てたけれども惟行の方は墓標の木の建っているのみで、久しく石碑を建てなかった。それは私が金に不自由なのと、一つは石碑を建てるならいっそ一家共同の石碑を建て、内藤家代々の墓とするがよいと思ったからである。そして幸に大正八年の末に、下山霜田氏の周旋で私の書いたものが売れて、いわゆる揮毫料が手に入ったので、その中から一番奮発して右の石碑を造る事にした。尤も両児は屍のまま一坪の墓地へ埋めたのであるが、これから私は勿論段々と死んで行く家族も、屍は必ず火葬にして、そしてこの石碑の下へ骨だけを葬る事と極めた。そこで墓石の下には、石で小さな穴倉が出来ていて、まず骨壺の十個位は入れ得る事になっている。年齢からいっても、私がまずこの穴倉の最初に入る、それから妻やその他が附いて来るので、後には随分賑々しくなるであろうと思うとちょっと可笑しい。これはまたぞろ最近の話にも立到った。
なお卅九年であった、常盤会寄宿舎は随分古い建物で、間取りも不便だという事から、久松家にも改築せられる考えもあったのだが、日露戦争の騒ぎなどで、延引していたのを、いよいよ決行される事になった。この改築中は、八ヶ月ばかり私は四谷の荒木町に移住していた。この頃の家庭は妻と末の男子和行のみであった。長男健行は前にいった、宮崎県より更に台湾の農事試験場に転任していたし、次男の惟行は北京で病み付いた頃であるから宅には居ない、それからいい落したが、次女の静はもう十年も前日清戦争の終った年に、凱旋した同郷人の騎兵大尉の小崎正満へ嫁した。この静や長女の順やそれが生んだ孫や曾孫などのことは、この先で段々と話す事にしよう。さて寄宿舎の改築も出来あがったので、私もそこへ住む事になって前よりは多少清潔にもなったのだが、この監督宅は寄宿舎と違って、古建物を移されたのであるし、門も崖端の狭い道についていたから、人力の乗り付けも出来るか出来ない位で、かなり不体裁なものであったのである。それで惟行の棺を出す時は門から出るには轅ながえが支えるので、板塀を少し取り除けたというような事もした。
この寄宿舎を改築の際から、今までは、寄宿生中より抜擢して命じた舎監を特に他の同郷の壮年者に嘱托する事になって、そこで肉弾の著者で名を知られた、桜井忠温ただよし氏、続いて陸軍中で才物の清水喜重氏が舎監となった、が、寄宿舎の学生も最初の頃と違って、真面目に勉強する者が少くなって、どうかすると学問より、父兄から貰う学資を酒代その他に費う者も出来たし、その上年々郷里の松山の中学校を卒業して、出京の上高等学校やその他の専門学校へ入学しようとする者が、一度や二度は、その試験に落第する、その落第者、即ち失望者が寄宿舎へ、転がり込んでいるのだから、いよいよザワザワして真面目に勉強する者が少くなった。それと共に少数の先輩や真面目に学問する者は多数者に圧迫されて逃げ出る者も段々と出来た。また改築以前は二十人ばかりを収容するに過ぎなかったのが、改築後間数も多くなったので、倍数の人数となって、その比例的にガヤガヤ生も多くなったのである。私は一体理論をするには長じているが、これに反して実務を弁じたり、多くの若い者を鞭撻したり、指導したりする事は短所である。そんな事から、私も理窟的には、いって聞かせて、多少矯正を計ろうとしたが、面と対してこそ反抗もせなけれ、陰ではやはり怠けている、夜分は酒を飲んで帰って大声を発する。そんな事が、久松家やその他の同郷人へ聞えると、凡てが私の監督の不行届といわれる、そんな事で私も監督で居る事が、もう厭になった。そして物価もその頃はさほど高くなかったから、いっそ監督をやめてもっぱら俳句の選者位で生活する方が気楽でよかろうと思ったので、その意を告げて、これもちょっとは許されなかったが、終に明治四十年の歳末頃に願いの如く責任を卸して、後の監督は、同郷の秋山好古氏がその時はまだ中将で騎兵監をしていた、それに譲った。そして舎監は法学士の船田一雄氏が少しその以前から嘱托されていたのである。そこで私は監督をやめると共に他に移住せねばならぬ事になったから段々諸方を探した末、やはり寄宿舎の近所の弓町一丁目へ小さいながら家屋を見付けて、そこへ住む事になった。これ以前私は未だ官吏生活をしていた頃、一時松山へ帰していた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷へ借宅して住んだ。それが、あたかも同じ弓町一丁目で、今度は廿八番地だが、以前は廿五番地であった。この廿五番地は内藤何の守とかいった旧旗下の邸で、私の借宅した大屋さんが、その内藤家である。が同じ内藤でも大名華族のを始めとして、この内藤家も甲州出で、有名な武田の四天王内藤駿河守の子孫が徳川家へ仕えた後裔である。そして私の内藤は早くより、丹波国に住んでいて小さな領地を持っていたが、織田信長の手の明智光秀が丹波へ攻込む時打ち負けて、その後は宇野姓を名乗って、越中守宗音入道と称して潜んでいたらしい、その人の自ら署名した略系図は今も存在している。それから越中守の子は瀬兵衛頼有といって幕府の二条城の与力を勤めて、その子の与左衛門頼綱というが久松家の先祖で徳川家康公とは異父同母の弟たる松平隠岐守定勝公に桑名で仕える事になった。そして松山へ転封さるる時随行して、それから長く松山藩士となっていたのである。そんな続き合いなども大屋さんの、内藤家の老人と会った時には話し合った事もある。ついでにいうが、今いった私の家の系図だが、それは本系図のある傍らに略譜として認められたものであるから、右の宇野越中守以前の十五代は近くて誰れも知っていると思ったが総て名さえも記されていない。そして本系図は或る時代に紛失してしまった。この事は私の祖父が熱心に調べたのだけれども分らないで、今日に至っている。尤も丹波の隣国の丹後は細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも幾人か仕えているらしい。そこで私が最近史談会の幹事を同じく勤めている関係から、熊本人の北野直壮氏に調べてもらったが、熊本の内藤諸家もその勤仕以後の人の姓名は知れているが、その以前の系図は伝わらぬという事である。唯私がこの頃国民新聞の徳富蘇峰氏が書かれたる日本国民史を見た時、織田が丹波に攻め込んだ際城を取られた者に内藤忠行というがある。これが恐らく私の家の先祖であろう。そして多くの家には通り字というがあって代々名の一字はそれを用ゆる事になっているが、私の内藤は必ずしもそんな事もせずにいて、古い時代の通り字さえ判らない、しかるに、前にもいった私が、明治五年に実印を失うと共に改名した、それは中庸の文字から素行とつけたのであるが、偶然にも先祖たる忠行の行の字を取った事になるのも不思議である。それから私の男子は、孰れも行の字を付けさせているがこれも先祖の霊の御引合せであろうか。
今一つついでにいうが、今いった先祖の与左衛門の時代は、島原騒動が治まった頃で、それ以来吉利支丹宗は厳禁で、その宗旨を奉ずる者を訴人すれば御褒美が出るという事までになっていた。ところが、この与左衛門の従弟が吉利支丹信者であったとかいうので、その嫌疑は与左衛門の上にも下って、俄に家禄を奪われて江戸表へ護送せらるる事となった。けれども少しも覚えのない事だから、それを弁解しつつあった末、吹上御殿において三代将軍の御前で訴訟人と対決させる事になって、この時に与左衛門が申し立てた事は事実相違ないという事に判決せられて、それから藩へ帰る事になったが、老中から今後も何らか御尋ねのある事がないとも限らぬから謹慎させて置けという事であったので、与左衛門は以前は大目付とかを勤めたといってあるが、その後は何らの役目をも勤めぬのみか、家族皆謹慎せられて、これまで禄は二百石であったのを三十人扶持と若党と下僕の給米を支給せられる事になった。これが四十年も続いて、二代目の甚五兵衛勝則になって余りに長く謹慎しているので、藩の当局者も気の毒に思って、幕府へ伺ったらあれは一時の事で、そんなに謹慎させるには及ばなかったというので、忽ち謹慎を赦されたが実は馬鹿馬鹿しい事であった。そして改めて百二十石貰ったが、その後の代々は才幹もなかったか、余り役儀も勤めずにいてそして名を出したのは、私の祖父瀬兵衛昶からである。この瀬兵衛は他の役も勤めたが、代官役で、民治の上には功績を立て、即ちその頃の弊として百姓が自ら怠って不作をさせて年貢の軽減を求めるというような事をも、矯正して、それぞれ未進のないようにさせたりあるいは義倉といって村々の共有財産を作って凶歳の準備をさせたりしたので、藩からも度々賞美された。その後廿七年を経て父の代に更に祖父が代官中の功績を追賞されて、若干の金を賜わった事もある。これは私も知っている。この祖父は経書では徂徠学を修め、甲州流の軍学にも達していて、旁ら文章や詩も作っていたので、その遺稿は今も存している。父も久しく藩の枢要に当っていて、参政や権大参事になった事は前にもいった通りである。
右の如く先祖は、吉利支丹宗の嫌疑で迷惑したにかかわらず、これも前にちょっといったが、私が番町に住んでいた頃、妻や長女は矢島楫女史の誘引で基督信者になった。これは私が例の哲学からの悟りで、婦女子には何らかの宗教心があるがよいと思っていたからだ。けれども先祖の嫌疑を私の代に至って、本物に吉利支丹宗を家族に奉ぜしむるに至ったのは、時世の変遷とはいえちょっと可笑しい。
私が単純なる俳句の選者生活になって後は、別に責任というほどのものも無く、段々とこの生活では多忙にもなったけれど、今までの如く不得手な役目を担うというのでないから、多忙の中にも自ら興味をもつ事になった。そして、私は俳句の上もいつの間にか古顔で大家という事になったので、若い人には幾らか立たててもらうし、広く各地方からも出京する俳人連の訪問を受けるから、それだけ私も位地が出来、自分ながら勢力を持ったような感じが出来た。それと共に俳句の上は勿論予て持っている哲学上の見識もいよいよ鍛練せらるる事になって、今日では、誰の前でもこの点なら憚ず主張するという自信が出来た。それから私が多少名を知らるると共に、俳句の揮毫を頼まるる事も段々と多くなって、それが単に句を書くのみでも愛嬌がないと思って、子供の時分から多少、自己流に描きなぐっていた画のようなものを併せて描く事になって、これも素人画としていくらかの人に賞翫せらるる事にもなった。尤も最初から人物ならどうかこうか形が出来るけれども山水や花鳥やその他の景色画となっては少しも描けぬ。また習って見ようとも思わぬので、此方は全く駄目である。文人がよく描く四君子などでも一枝一葉さえも真似する事が出来ぬ。が、こんな揮毫でも物好きな人には需めらるるので、これに関する収入が選句以外に出来て、爾来物価が騰貴しつつあるにかかわらず、まだ今日でも、どうかこうか活計を立てている。それから、大正六年に今までに住んでいた家屋は余りに狭くて不便なと、妻などに訴えらるるので、終に転宅を思い立って、この時も随分彼方此方と探した末、現今の麻布区笄こうがい町百七十五番地へ住む事になった。この家は前と比べると聊か間数も殖えて勝手もよいし、前後に庭の空地もあるので、妻などにも多少満足させている。殊に借家難の声が盛んになると共にいよいよこの家屋は易かわらず長く住みたいと思う事になった。今もこの話をしつつ、南向きの障子から射す、晴日を浴びて、私の寒さ嫌いも大分暖気を覚えるのだ。私は今もいった如くやかましい責任こそ免れたけれど、今とても全く職務を持っていないのではない。それは明治廿二年頃から久松家の御家事に関する諮問員を勤めていて毎年の予算決算から重要な事件の議に与っている。また同家の嘱托で史談会へ関係して後ち、早くより幹事の一員に列していたがこの会の主幹としてもっぱら働いていた鹿児島人の寺師宗徳氏が亡って以来は、ついつい私が専務幹事とでもいうような責任を背負って、今では会計の事から、月々発行する雑誌の編輯や印刷の事務までを引受けて、おまけに校正まで私親みずからせねばならぬ事になった。この方面だけでも毎月幾日か、つぶすのだから、その他の俳事の他方面になると共に、いよいよ忙しくなった訳だ。この外かつて徒歩主義会というものを梅原喜太郎氏が設けられた頃、先達に推戴されて一同とあちこち遠足会などもした。その関係から、種々な変った人物にも接した事がある。この徒歩主義会は先年梅原氏が退かるると共に自然と廃止となった。また孔子祭典会のあった頃は、史談会からも誰れかその委員に加わってもらいたいという事で、私がそれに当って、嘉納治五郎氏委員長の下に、漢学の専門家などと共に毎年一回湯島の孔子の廟で祭典を行う時は、私も役員の徽章を付けて用弁をした。が、これは斯文会が組織を拡張する際において合併されて、私も未だ特別会員にはなっているが、その後は祭典があっても、余り出席せない。この外他の府県にもあるが、我愛媛県にも教育協会というがあって、私は文部省の高等官でいたしまた、以前県の学務に久しくいたという関係で、名誉会員に推薦されている。その後同県の宇和島人で、曾根松太郎氏が「教育界」を金港堂より譲り受けられた際に、愛媛教育協会の東京部というを設けられて、私は此方でも文部省専門学務局長の松浦鎮次郎氏官立盲学校長の町田則文氏と共に副会長となっている。今一つ松山に同郷会というのがあって、青年の指導に任じている、その東京部長というのも私が脊負っている。また寄宿舎の監督こそやめたれ、前にもいった如く、この寄宿舎と給費生との事件に関する世話係というを久松家から嘱托せられて、今もその一員である。

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

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# by li_japan | 2016-12-17 14:27 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

鳴雪自叙伝⑥ 内藤鳴雪著 こにし拡建選択編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

二十一

私が前にもいった、麻布笄町への転宅は年齢では、七十一歳であった。七十は杜甫の詩に、『古来稀』ともいっていて、それ以来は古稀の祝と称えて誰れもする事である。しかし私は別に祝いたいという感もなく、また祝うとすると金もいるが、その金もないのでそのままにこの年も終えてしまったのであるが、故子規氏の庵で時々開く、旧友会の連中が特に私の古稀を祝って遣ろうとの事で、やはり子規氏の旧庵でそれを催おしてくれられた。その時の中村不折氏の書いた私の肖像は表装までしてもらっている。尤もその肖像の体勢が、私よりも不折氏の方に肖にているという事はその席上での笑柄に上って、少数ながら面白い会であった。それから、郷地の松山の知人達においても、私の古稀に達したということを聞いて高浜近傍の梅信寺という寺の座敷を借りて祝宴を開いて下さった。暑中で殊に伝染病の行われていたにもかかわらず、なかなか大勢集まって、私の娘婿の山路一遊(師範学校長)を、私の代りに主賓として饗応され、なお席上の揮毫の合作や署名の大幅を贈ってくれられたのは、私の嬉しく思う所である。

私の七十歳の年はこれだけで終って、いよいよ七十一歳となった頃、かつて寄宿舎に居た、勝田主計氏和田昌訓氏が発企して多くは旧寄宿生であった人々と、それに同郷の先輩数人を加えて、醵出された金を以て私の寿碑を郷地の道後の公園に建てらるる事になった。これは主として旧寄宿生というのであったから、わざと広くはこの事を及ぼされなかったようである。それが段々と運んで、この年の九月に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い来いといわれたのだが、私は前にもいった如く、新聞や雑誌で多くの俳事を担当しているし、また旅行という事を余り好まぬ方なので、その好意は辱かたじけのう思いながらも、いつも辞退してばかりいた。しかし今度は寿碑も建てて下さったという訳から、以前の関係もあるし、是非とも帰郷せねばならぬと決心した。そうして妻も殆ど三十年前に松山を見たのみで、どうか今一度見たいという希望もあったから、これをも同伴する事になった。尤も同郷人の歓迎も私夫妻共にという事であったので、そこで九月の十六日老夫妻が始めて一等汽車に乗ってまず京都まで行った。ここには妻からは姪にあたり、私からは従弟の娘にあたる、木村愛子というが居る、この夫は利明といって、これも同郷人だが、西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるのである。そこへ私どもは一泊して、その晩は京都の同郷人の歓迎会に出席した。この会は肉弾の著述で有名な桜井忠温氏が頭で、その他は木村氏の外皆生面であった。尤も中堀貞五郎氏はその祖父や父や兄なる人は私の旧知であったのだ。会の場所は四条烏丸の角の割烹店で京都風の鰻の蒲焼を食べたのもちょっと珍らしかった。この一泊した木村氏の宅は、因幡薬師堂の傍で、東本願寺はじき近くであったから、その翌日大谷句仏師を訪ねた。が折悪しく旅行の留守とかで粟津水棹氏が応接せられた。そして大谷家の表座敷から本堂や祖師堂等を案内せられたが、その宏壮なのに驚いた。例の信者の女の切髪の綱も見たが、私は凡てが髪の毛かと思っていたに、多分は苧糸で、それに髪の毛が絡んでいるばかりであった。なお枳殻きこく御殿も見たければ案内しようといわれたが、私は正午に大阪行の汽車に乗らねばならないから、厚意を謝して直に退出した。いよいよ時刻となったので、再び汽車に搭じて大阪へ着いた。ここの旅宿は同郷人の平井重則氏の知り合いの藤井旅館であった。今夜も同郷人の歓迎会が堂島の川向うの何とかいった大きな料理屋で催されたので、右の重則氏と太田正躬氏とが同伴せられて自動車で乗り着けた。この自動車は東京のよりも大分緩ゆっくりと馳せた。席上は京都よりも三倍以上の人で旧面識の人も多かった。そして同郷の松山人の外、同県で旧他藩に属する人々も加わって居られた事は、私の特に感謝する所である。私夫婦は明治元年に結婚したので本年はあたかも金婚式にあたるから、私がこの席上の挨拶にその事も披露して、新婚旅行ではなくて、旧婚旅行だと言って一座を笑わせた。この会以外に、私の弟の娘の須磨に居る市橋良子、及び神戸にいる従弟の子の交野国雄にも逢った。その翌日は山陽汽車に搭じて尾の道まで行って、何とかいう旅店に投じた。元来ならこの午後に汽船で郷里の高浜まで行くのだが、その頃高浜の石崎汽船の一艘が修繕中で、午後には便船がないということで、余儀なくここに一泊した。この地にも同郷人の福富恭礼氏が居たので、その案内で或る寺院等を見物したが、随分古い由緒のあるのもあった。翌日はいよいよ内海通いの汽船に乗った。この際同郷の伊与日々新聞社長柳原極堂氏から二人まで社員を差し越された。尤もこれは私の歓迎会の総代という事であった。そこで船中ではこの人々と種々話しをして、それに気を取られて、いわゆる瀬戸内海の島々の風景などは見ずにしまった。尤も私は船嫌いなのでこの航路の横潮にはいつも閉口するのであるから、立って風景を眺めるよりも寝ていて話しをする方が実際勝手もよかった訳もある。夕刻にいよいよ高浜へ着いた。ここには大勢の人に出迎われて、親戚もあれば旧友もあり、多方面の人々であったが、こんな時には哲学で悟を開いた私もやはり訳もなく嬉しい。その晩は従弟で医者である天岸一順の宅へ落着いた。この後ちはこの宅と娘婿の山路一遊の宅とあちらこちらと止宿して、二週間ばかりも滞在したのである。そこでその翌朝からは殆ど間断なく来訪者があって、久濶を話し合うのでいよいよ嬉しくも珍らしくも感じたが、また随分と疲労も覚えた事である。或る日は婿の一遊が松茸狩りに連れて行こうというので、城下からつい二里半ばかりの平井谷というへ汽車で行って、松茸を取った、尤もこれは、山主が予て囲って置いて、それを勝手に採らせて、採った松茸は秤で量って値を取るのである。だから別に捜さないでも松茸は一面に生えているので、いわゆる茸狩という興味はない。けれどもその取ったままの茸を山中の池の堤で石の竈で煮たり焼いたりして、酒を飲み飯を喰う、それだけはちょっと普通の家屋で喰うよりは興味があるのである。

いよいよ除幕式の日になったので、その日は電車で道後公園へ行ったが、妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられて、予てこの建碑に厚意を寄せられた人々はいずれも参会した。そして柳原極堂氏の建碑の始末に関する報告があり、旧温泉郡長の大道寺一善氏が私に対する頌賛的の演説があり、私もそれに答えかたがた厚く謝辞を述べて、この碑は私の如きものの記念というよりは、故旧に対して厚い同郷諸君の徳誼の表彰碑だといって置いた。それから直に県公会堂で大歓迎会を開いて下さるというので、それに赴いた。これは県庁の隣に新築されたもので、市の公会堂の萱町かやまちにあるものとは全く別なのである。私は始めて来たのだが、会場も広濶で数多の食卓が並んでいる。ここでも妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられたのである。そして県官の側では、内務部長や警察部長や、また県立諸学校長や、県会議長や、実業家の主なる人々も出席され、その他の知人や俳句上の同人も多く出席して下さった。この席では郷里の年長者である、旧農工銀行頭取の窪田節二郎氏が総代として私のために頌辞を述られ、次に警察部長大森吉五郎氏と、今一人とが同じく頌辞を述べられた。私も起って挨拶をして、一体私は理窟を調べる智識には、いささか得意もあるが、実務に当っては何らの働きもない、ただ偶然に藩から県と学務の責任者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっているが、人々の幇助を得て幸に大いなる失墜もなかった、しかるに今日かかる盛大なる歓迎を受くるというは望外の事である。が、これは全く私が七十一歳まで長寿を保ってまだ多少働いているという事に同情を寄せられたので、一面からいえば養老の恩典である、養老の典とすれば、私からいうと如何だが、また郷里の美事である、さすれば今後は、私以上に郷里のために力を致した老人に対してもこの典を挙げてもらいたい、そして私はいわゆる『自隗始』の心得でこの歓迎を受けて置くというような事を述べて置いた。それから多くの人が起って来て盃の取やりをされたが、そう酔払っても困るから、多くは吸物椀へ翻して、よき頃を見計って妻や親戚と共に退席した。

この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句を作ればそれで可いことだ、というような事を述べて置いた。なお敬晨会というはもっぱら老人のみを以て組織された俳句会で、これも予ての知り合であるから、そこへも出席した、この席中には私よりも年長者として、野間一雲、柳原尚山、真部春甫氏などがある。就中一雲氏は七十七歳で最近病臥して居られたが、私の帰省したのを喜んで病を押して出席された。その後私が帰京して間もなく氏の訃報に接したのは殊に悼む所である。この老人連は私の関係している日本及日本人の毎号へ出吟してくれらるる仲間なのだ。また藩主の祖先を祭った東雲神社の社務所で同県人の能楽を見た。これは毎年定期に法楽の催しがあるので、ちょうど高浜虚子氏及その兄池内信嘉氏も帰県していて一緒に見た。我が藩にはかつては禄を与えて召抱えた能楽師及囃し方も数々あって、藩主御覧の能楽も時々あったから、その名残を今も有志者の仲間で留めているのだ。就中崎山氏というが牛耳を執っていた。衣裳も旧藩主家のを譲ってもらったのだが、モウ古くなって、あるいは綻びをつづくっているのもあって、私も頗る感慨に打たれた。

私の松山滞在は僅の日数であるにかかわらず、来訪者の頻々たると共に揮毫を需むる人が非常に多かった。それでこの方面にはとても応じ切れぬので、あちらこちらと知人の宅へ逃げて行ってそこで断ることの出来ない分の揮毫をした。この数だけでも五百や六百はあったろう。そこでいよいよ出発する日に迫ったが、その前日においてやっと除幕式や歓迎会を開いてもらった人々に答礼としての訪問を終えた。が漏れたのも尠くない。出発の前夜も道後の船屋別館で、五十二銀行の石原頭取其他が送別宴を開いて下さった。またこの以前に、城下の南外れの亀の井という割烹店で二回までも或る方面の人の御馳走になった。私が主人となって、この亀の井で親戚と最も親しい婦人連を招待した事もある。なお広く郷地の人々を招待したいのであったが、何しろ貧乏な私は、金がないのでその志が遂げられず、御馳走の喰いっぱなしで這々ほうほうの態ていで引上げてしまった。また一つ遺憾なのは、久しぶり即ち十七年目に帰省したのだから一度は城山の絶頂に登って眺望をしたいと思ったが、それも出来ず、道後の公園さえ私の碑の建った場所を見たのみで、山上の陛下の御手植の松さえ見る事が出来ず、温泉の町も昼の光景は見る事が出来なかった。

前にもいった私の檀那寺正宗寺には、代々の墓もあるから、妻と共に参拝した上に、総ての仏に対する法事を営んで、僧侶と近い親戚とへ午餐を出した。ここの和尚も揮毫を求めたから禅宗でもあるし、かたがた例の達磨の句を全紙に書きなぐって与えて置いた。この寺は故子規居士の石碑もあるから、知る人は時々訪れるらしい。

こんな風で松山は引上げて、この帰途には大阪で青木月斗氏等の俳句会に臨む約もあるし、また奈良見物や、京都近傍の三井寺石山寺等の参詣も期していたのだが、兵庫へ着くと、姪の婿なる市橋俊之助が停車場に来ていて、流行感冒が猖獗で家族も臥蓐しているといったので、その須磨へも一泊せず、神戸の或る旅店に一泊したままで、直に東京へ急行列車で帰って来た。老夫婦は旅中で流行感冒に罹っては大変であるからだ。

いい落したが右の松山行をせぬ前に東京において碧梧桐虚子氏その他の催しで、私の祝賀会として、靖国神社の能楽堂で、能楽の催しがあった。これは『ホトトギス』の関係から広く文士連を招待されたので、見所も満員となった。演奏されたものは、『自然居士』と『花筐はながたみ』とで、甲は虚子氏がシテ、碧梧桐氏がワキであった。俳句の上では両氏は殆ど義絶的であったが、能楽となると、こんな風にやらるるのは、両氏においても美事なるのみならず、私には最も感謝する所である。『花筐』はこれも同郷の喜多流で師匠株になっている、金子亀五郎氏がシテで、ワキは同郷の黒田から妻を娶っている宝生新氏が勤めて下さった。この時も私夫婦は勿論、その頃出京していた山路の娘その他親族を招待してもらった。開会の詞は東洋協会理事の同県人門田正経氏が述べられて私もちょっと挨拶した。それから、この会は俳人その他の細君や娘達が、赤前垂れで模擬店を開いて下さったのも嬉しかった。またこの年に同郷文芸会でも、池内信嘉氏の監理していらるる能楽会の大座敷で、古稀の祝会を開いて下されて、特に私のために、池内氏が作られた文句で同郷の森律子氏が、仕舞をせられた。これも頗る賑々しい事であった。また私の監督していた寄宿舎の関係ある人々からは、前にいった建碑の外、祝賀会をも開いて下さって、これは白山の白山閣であった。この割烹店主はかつて寄宿舎の賄をしていた初見嘉四郎氏であったので、この人の発達といい、旧舎生中でも当時大蔵大臣の勝田主計氏なども出席せられたので、一座の親しみは勿論、私も非常に愉快であった。殊に店主の初見氏が白山芸者数名を余興として寄附されたのも深く感謝する所である。

以上の如き数々の祝賀会に対しては、私が自筆の『迎へしは古来稀なる春ぢやげな』の句を染出した帛紗を配った。が、京都や大阪や松山の厚意を受けた人々へは、未だそれを送っていない。そうこうするうち、早数年を経たが、是非生前に何かの挨拶をせねばならぬのである。今一ついい落したが、俳人側においても中野三允さんいん氏が催しの祝賀会は、牛込の清風亭で開かれ、渡辺水巴すいは氏の曲水吟社で催しの会は上野の花山亭で、倉重禾刀氏の乙卯吟社で催しの会は飯倉の熊野神社で開かれまた南柯吟社の武田桜桃氏等の催しは、日本橋の常盤倶楽部であった。就中常盤倶楽部は殆ど二百名の出席者で私にとっては過分の盛況であった。なおこの外、雑誌、『曲水』『南柯』等では特に私のために記念祝賀号を発行して下さった。また林露竹氏等の千代田吟社からは唐木の書棚を贈られるし、その他の人々からも祝賀の記念物を数々貰ったのは私の名誉とする所である。しかるに私であるが、例の貧乏老人はどうか一番自分にも祝賀の大会を開いて、多くの厚意を受けた人々を招待したいと思うけれども、とても出来ぬ。そこで一夕僅に親族だけを芝浦の某亭(名を忘れた)に案内して小賀宴を開いた。これも旧藩主久松伯爵家の家令で居る弟の克家が多くの幇助をしてくれたことであった。

私の晩年の思い出は、まずこの古稀の祝賀会であって、その後は別に話す事もない。また私は前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する。幸に去年からそれを凌いで来て、これからは、いわゆる小寒大寒を凌がねばならぬ。果して凌げるかどうかは神ならぬ私は全く知らないのである。

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句

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# by li_japan | 2016-12-17 14:21 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

内藤鳴雪俳句抄録 松浦為王選択 木子編集

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句
区切りを入れたが、不都合があれば知らせてください。


新年の部
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元日や 一系の天子 不二の山
六日はや 睦月は古りぬ 雨と風
朝拝や 春は曙 一の人
輪飾や 吾は借家の 第一号
輪飾の 低うかゝりし 戸口かな
打ちつれて 夜の年賀や 婿娘
万歳や 古き千代田の 門柱
万歳の 鼓を炙る 竈かな
妻猿の 舞はですねたる 一日かな
春駒や 美人もすなる 物貰ひ
鞠唄や 妹が日南の 二三尺
から/\と 切凧走る 河原かな
藪入の 昼寝もしたり 南縁
きぬ/″\や 薺に叩き 起されつ

病中新年
寝て聞けば 知る声々の 御慶かな

子規を訪ひて
病む人も 頭もたぐる 御慶かな
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春の部

初東風や 富士に筋 違ふ凧
仙人や 霞を吸ひて 寝つ起つ
道尽きて 松明振るや 雪解川
春雨や 酒を断ちたる 昨日今日
春雨に 杉苗育つ 小山哉
浅茅生の 宿と答へて 朧月
朧夜の 雨となりけり 渡月橋
小蔀に 人のけはひや 春の月
片側に 雪積む屋根や 春の月
陽炎や 石の八陣 潮落ちて
陽炎や 掘り出す石に 温泉の匂ひ
桶に浮く 丸き氷や 水ぬるむ
子鴉や 苗代水の 羽づくろひ
春寒の 白粉 解くや掌
梅ちりて 鶴の子寒き 二月かな
永き日や 花の初瀬の 堂めぐり
伐り出す 木曾の檜の 日永かな
寒食の 膳棚に吹く 嵐かな
掃き溜の 草も弥生の けしき哉
陀羅尼品 春の日脚の 傾きぬ
暖かや かちん汗かく 重の内
脱ぎ捨てし 人の晴着や 宵の春
春の夜の 鳩のうめきや 絵天井
行春の 鴉啼くなり 女人堂
夏近き 吊手拭の そよぎかな
山畑は 月にも打つや 真間の里
銃提げて 焼野の煙 踏み越ゆる
摘草の 約あり淀の 小橋まで
一畑は 接木ばかりの 昼淋し
文使を 待たせて菊の 根分かな
乞食の 子も孫もある 彼岸哉
踏青や 裏戸出づれば 桂川
古雛の 衣や薄き 夜の市
盃の 花押し分けて 流れけり
堀止めの こゝも潮干や 鰌掘り
出代りて 此処に小梅の 茶見世かな
涅槃繪の 下に物縫ふ 比丘尼哉
曇る日や 深く沈みし 種俵
衣桁にも 這ふ蚕に宮の 御笑ひ
行雁や 射よげに飛んで 那須の原
あちこちと 鶯飛ぶよ 芝広し
鶯や 折り焚く柴に 夜を啼く
二羽打ちて 啼かずなりたる 雉子哉
柳鮠 かき消すごとく 散りにけり
汁椀に 大蛤の 一つかな
雲雀落つ 影も夕日の 田毎哉
子雲雀や 比叡山おろし 起ちかぬる
苗代の 水の浅さよ 蛙の背
野の梅や 折らんとすれば 牛の声
垣越えて 梅折る人や 明屋敷
夕日や 納屋も厩も 梅の影
灯ともして 夜行く人や 梅の中
荷車の 柳曳きずる 埃かな
うたゝ寝の 覚むれば[#「覚むれば」は底本では「覧むれば」]桃の 日落ちたり
奈良坂や 桜に憩ふ 油売
さくら折つて 墓打ちたゝく 狂女かな
北面に 歌召されけり 梨の花
足伸べて 菜の花なぶる 野茶屋哉
菜の花の 行きどまりなり 法隆寺
躑躅ぬけば 石ころ/\と 転がるよ
京都へ 嫁入る 女子に (こにし注453)
暖き加茂の 流れも 汲み習へ
亡児惟 行が記念の 帛紗に
為山が 藤の花 画きたれば
行き行きて 行くこの春の 形見かな

夏の部

大刀根の 泡や流れて 雲の峰
池に落ちて 水雷の 咽びかな
夕立や 石吹き落す 六合目
五月雨や 蓑笠集ふ 青砥殿
五月雨の 合羽すれあふ 大手かな
蓑を着て 河内通ひや 夏の雨
清水ある 家の施薬や 健胃散
雨雲の 摩耶を離れぬ 卯月かな
大沼や 蘆を離るゝ 五月雲
短夜や 蓬の上の 二十日月
短夜の 麓に余吾の 海白し
午睡さめて 尻に夕日の 暑さかな
涼しさや 月に経よむ 一の尼
更へ/\て 我が世は古りし 衣かな
新茶煮て この緑陰の 石を掃ふ
矢車に 朝風強き 幟かな
灌仏や はや黒々と 痩せ給ふ
大団扇 祭の稚児を あふぎけり
滝殿に 人ある様や 灯一つ
折り/\は 滝も浴み来て 夏書かな
蓬生の 垣に蚊遣す 女かな
古庵や 草に捨てたる 竹婦人
百の井に 掘りて水なし 雨を乞ふ
一杓は 我も飲みつゝ 打つ水よ
波立てゝ 持ち来る鉢や 冷奴
時鳥 左近の陣の 弓の数
月がさす 厠の窓や 時鳥
貰ひ来る 茶碗の中の 金魚かな
老い鳥や 己が抜羽を 顧る
古御所の 蓬にまじり 牡丹かな
荒れ寺や 塔を残して 麦畑
萍の泥に たゞよふ 旱かな
一八の 東海道も 戸塚かな
下闇を 出づれば鶏の 八つ下り
玉葛の 花ともいはず 刈り干しぬ

秋の部

聴衆は 稲妻あびて 辻講義
朝露や 矢文を拾ふ 草の中
暁や 鐘つき居れば 初嵐
我声の 吹き戻さるゝ 野分かな
税苛し 莨畑の 秋の風
三日月や 仏恋しき 草枕
三日月に 女ばかりの 端居かな
月の船 琵琶抱く人の あらはなり
横雲や いざよふ月の 芝の海
古妻の 昔を語る 月夜かな
空家に 下駄で上るや 秋の雨
初潮を 汲む青楼の 釣瓶かな
山の井や我顔うつる秋の水
提灯で 見るや夜寒の 九品仏
山越や 馬も夜寒の 胴ぶるひ
堂島や 二百十日の 辻の人
我が描きし 絵に泣く人や 秋の暮
行秋の 石より硬し 十団子
下京や 留守の戸叩く 秋の暮
七夕を 寝てしまひけり 小傾城
押し立てゝ はや散る笹の 色紙哉
呼びつれて 星迎へ女や 小磯まで
屋根越しに 僅かに見ゆる 花火かな
小袴の 股立とつて 相撲かな
小角力の 水打つて居る 門辺かな
魂棚の 前に飯喰ふ 子供かな
草分けて 犬の墓にも 詣でけり
墓拝む 後ろに高き 芒かな
草市の 立つ夜となりて 風多し
通夜の窓 ことり/\と 添水かな
提げて行く 燈籠濡れけり 傘の下
酔顔の 況や廻 燈籠かな
踊るべく 人集まりぬ 月の辻
月ももり 雨も漏りしを 蚊帳の果
つゞくりの 遂に破れて 秋の蚊帳
巻きかへて 又打ち出だす 砧かな
摂待に 女具したる 法師かな
鳩笛も 吹きならひけり 湯治人
吹くうちに 鳩居ずなりぬ 野の曇り
綿取りに 金剛山の 道問ひぬ
山宿や 軒端に注ぐ 落し水
豹と[#「豹と」は底本では「豺と」]呼んで 大いなる蚊の 残りたる
桟橋に 舟虫散るよ 小提灯
蜩や 千賀の潮竈 潮さして
宵闇や 鹿に行き逢ふ 奈良の町
初雁や 襟かき合す 五衣
眼白籠 抱いて裏山 歩きけり
大寺の 屋根に落ちたる 一葉かな
したゝかに 雨だれ落つる 芭蕉哉
芭蕉破れて 雨風多き 夜となりぬ
灯ともせば 只白菊の 白かりし
萱原に ねぢけて咲ける 桔梗かな
いさかひは 木槿の垣の 裏表
夜をこめて 柿のそら価や 本門寺

冬の部

凩の 吹きあるゝ中の 午砲かな
折りくべて 霜湧き出づる 生木かな
初霜を いたゞきつれて 黒木売
もてあます 女力や 雪まろげ
大雪の 谷間に低き 小村かな
月寒し 袈裟打ち被る 山法師
古塚や 冬田の中の 一つ松
萩窪や 野は枯れ果てゝ 牛の声
初冬の 襟にさし込む 旭かな
小春日の 山を見て掃く 二階かな
湖を 抱いて近江の 小春かな
釜に湧く 風邪の施薬や 小春寺
冬の夜や 小犬啼きよる 窓明り
僧定に 入るや豆腐の 氷る時
耳うとき 嫗が雑仕や 冬ごもり
書を積みし 机二つや 冬ごもり
門前の 籾を踏まるゝ 十夜かな
横はる 五尺の榾やちよろ/\火
古蒲団 縄にからげて いた/\し
繕ひて 幾夜の冬や 紙衾
炭焼の 顔洗ひ居る 流れかな
風呂吹の 一切づゝも 一句かな
顔見世や 病に痩せて 菊之丞
寒声は 女なりけり 戻り橋
有明や 鴛鴦の浮寝の あからさま
鮟鱇の 口から下がる 臓腑かな
茶の花を またいで出でつ 墓の道
から/\と 日は吹き暮れつ 冬木立
樹にかけし 提灯一つ 師走かな
大年の 両国通ふ 灯かな
煤掃や 庭に居並ぶ 羅漢達
暁や 見附出づれば 餅の音
忘れけり 四十九年の 何とやら

自叙伝① 自叙伝② 自叙伝③ 自叙伝④ 自叙伝⑤ 自叙伝⑥ 俳句
区切りを入れたが、不都合があれば知らせてください。

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# by li_japan | 2016-12-17 09:35 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

朝顔に つるべとられて もらい水/加賀千代女

————— 夏日俳句 2016-8-12 —————
俳句と漢俳を一緒に勉強したい方はご連絡ください。
li_japan(LINE, WeChat, QQ, skype)

Zheng Ju 23:11
0812夏日俳句
3.朝顔に つるべとられて もらい水
作:加賀千代女
つるべ(釣瓶)は井戸で水を汲み上げるための桶。

左艺 23:23
加賀千代女のことを調べました
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3

高明黎 23:37
井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶の所につるを巻きつけていた。
朝顔を千切って水を汲んでも良いのだが、それは可哀相なので、隣の家の人に水を貰いにいった。
ああ、俺って風流だなあ。

左艺 23:43
加賀の俳人「千代女」の句「朝顔に つるべ取られて もらい水」、晩年に「朝顔や つるべとられて もらい水」と直されました。
彼女は石川県白山市の出身で、朝顔は今では市の花となっています。市内に千代女の里俳句館が建っています。

Zheng Ju 0:18
牵牛花盛开,古井掩映自难寻,且携木桶归。

高明黎 0:27
井戸で水を汲もうとしたら、朝顔が釣瓶の所につるを巻きつけていた。
朝顔を千切って水を汲んでも良いのだが、それは可哀相なので、隣の家の人に水を貰いにいった。
ああ、俺って風流だなあ。
——
汲水到井边,不意牵牛花藤缠住汲桶。不忍心扦断花藤,就向邻居借水。

木に子 0:30
d0007589_2085816.jpg


seiji morisako 18:40
陽落後 一家団欒 蚊帳の内

木に子 19:01
朝顔に つるべとられて もらい水
汲水到井边,不意牵牛花藤缠住汲桶。不忍心扦断花藤,就向邻居借水。
担水去井蓬 喇叭花藤缠井绳 借水充家用
这里换成了小时候山西农村的风景



————— 2016-12-16 —————

木に子 0:15
秋空を 二つに断てり 椎大樹/高浜虚子 : 一言一会/那三届

图片1(可在附件中查看)

1216(五)中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水
【作者】加賀千代
【季/季語】秋/朝顔
【説明】朝、井戸に水をくみに来てみると、朝顔のつるがつるべに巻きついていて水がくめない。切ってしまうのもかわいそうなので、近所に水をもらいに行くことにした。「つるべ」=つなの先におけを取りつけて、水をくむようにしたもの。
【発音】朝顔(あさがお)に/つるべとられて/もらい水(みず)

朝早く、井戸に水を汲(く)みに来てみると、つるべに朝顔のつるが巻き付いていて水を汲むくとができない。つるを切ってしまうのもかわいそうな気がして、隣(とな)りの家に水をもらいに行ったことだ。

女性らしい細やかな目線、優しさや思いやりが伝わってくる句である。(秋・句切れなし)

※朝顔… 秋の季語。旧暦七~九月は秋。季節を夏と間違えやすいのでテストで頻出。
※つるべ… 井戸の水を汲み上げるための装置で、縄や竿(さお)の先に桶(おけ)がつけてある。
※もらひ水… 人から水をもらったことであるよ、と詠嘆を表している。

※体言止め。

※取られて… 擬人法により、「取られてしまって」と、か弱い植物への女性らしい思いやりが伝わってくる。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

☆季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※理智で創作したわざとらしさが嫌味であるとする批評がある。

※加賀千代女(かがのちよじょ)… 江戸中期の女流俳人。加賀国松任の人。安永四年(1775年)九月八日(新暦10月2日)没。享年73。

图片2(可在附件中查看)

高明黎 6:12
今天的好像重复了![惊讶][惊讶][惊讶]

木に子 6:41
@高明黎 確かに http://sxcn.exblog.jp/23399513

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%A5%B3

Zheng Ju 7:33
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

牵牛绕井开 吊桶难寻更惜花 借水向邻家

旧作:牵牛花盛开 古井掩映自难寻 且携木桶归。

木に子 7:40
繰り返す 学ぶことには 必要だ

高明黎 7:42
温 故知 新

121[调皮][呲牙]

木に子 7:43
あの時は 夏の句だった いま秋に

@高明黎 哈々々[呲牙]
只温故 不知新 需添油 再加醋 温故知新
昨天的 金人捧露舟 谢老师
金人捧露舟 金人捧露盘之弟 无韵不平仄

云端 8:26
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

牵牛花开早 青藤蜿蜒井绳绕 借水邻家好

这个夏天的没翻译过,温新知新[强]

还珠格格☆ 8:26
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

牵牛花儿开 井边绳索缠起来 害我借水抬

儿歌版[愉快]

@云端 [强][强]一个场景这么有诗意[愉快]

云端 8:31
喇叭花开唻 井绳都被藤缠坏 借水也来派(二人转版)

还珠格格☆ 8:37
弹曲扭起来[呲牙]

云端 8:37
@碧空秋水 早上精神精神[呲牙]一天之计在于俳

承瑶(楊春) 8:52
@木に子 朝花颜色好 井边鹤橹展窈窕 疑遣邻家绕 ☆

木に子 9:18
俳句的行里 不要有别的东西 这样好处理

例外として、表情を認めるようになりましただけ。

皆さん、お待たせしました。
今までの俳句群内容を整理しましたので、ご確認を。
 秋空を 二つに断てり 椎大樹/高浜虚子
 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり/正岡子規
 雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと/松本たかし
 冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと/加藤楸邨
 初時雨 猿も小蓑を ほしげなり/松尾芭蕉
 長々と 川ひとすじや 雪野原/野沢凡兆
北京で開けるようにはなったが、めちゃ遅い、大変だった。
また、時差の一時間もあるため、
タイムスタンプも一時間をずれました。
こにし
http://sxcn.exblog.jp/i21/
北京よ 無雾霾天気 続けよう

高明黎 10:30
早上的 第一句与他人佳作重复![惊讶][尴尬]改一下[呲牙]

中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

朝颜凝露排 藤绕井绳不忍掰 借水走邻宅

木に子 10:43
牵牛花盛开 @高明黎 说有佳作 请老师明示[勾引]

还珠格格☆ 10:45
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

牵牛花绕绳 愿留秋色井边融 邻家讨水僧

浮雲 10:45
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

早晨没洗脸 水桶打水不等闲 浴貌漂亮点

还珠格格☆ 10:45
添油加醋版[调皮]

高明黎 10:48
@浮雲 仁兄不拘一格,这可让木子大师为难了![呲牙][调皮][得意]

木に子 10:48
@碧空秋水 好! 只见女生变成僧 没看到油醋

@浮雲 好 你倒冇想歪 远了点[呲牙]

还珠格格☆ 10:53
@木に子 没看到油醋吗?[惊讶][偷笑]

按这个格律写的。
[仄]平平仄平 平平[平]仄仄平平 平平仄仄平

就变成和尚了。

浮雲 10:59
@木に子 上井打水干什么用?难道只喝不洗吗?真是的☆善哉善哉☆

小草 11:24
中学受験俳句秋篇No.04
朝顔に つるべとられて もらい水

牵牛照花容 青青柔蔓缠井桶 吃水近邻求

还珠格格☆ 13:12
@木に子 加賀千代女は法名素園、千代尼と呼ばれる。[Fight]

是僧女。

云端 15:08
五绝 井边牵牛花

青藤缠桶翠,
朝日映花红。
不忍汲甘冽,
邻宅借东风。

还珠格格☆ 15:34
忆江南 爱花人

晨光好,灿烂喇叭花。
水井桶绳缠绿蔓,
除藤唯恐葬朝霞。
汲水去邻家。



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# by li_japan | 2016-12-16 20:00 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

秋空を 二つに断てり 椎大樹/高浜虚子

————— 2016-12-15 —————

木に子 4:41
1215(四)中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹
【作者】高浜虚子
【季/季語】秋/秋空
【説明】真っ青にすみきった秋空を、椎の大木は、その空を断ってしまうかのような勢いでそびえている。「断てり」=切断する。
【発音】秋空(あきぞら)を/二(ふた)つに断(た)てり/椎(しい)大樹(だいき)
d0007589_074893.png

天高く、澄んだ秋の空を、椎(しい)のこの大樹(たいじゅ)は、まさに真二つに断ってしまっていることだ。

天を突く勢いでそびえ立っている生命感溢れる椎の大樹の力強さ、見事さが印象的である。(秋・二句切れ)

※秋空(あきぞら)… 秋の季語。
※断てり… 強く言い切ることで、まさに断っていることだよ、と強い詠嘆を表している。
※椎(しい)… ブナ科の常緑高木。高さは約25mにもなる。材は建築・器具・燃料等のほか、シイタケの原木に用いられる。果実は食べられる。

※体言止め。

※断てり…擬人法により、椎の大樹の存在感、力強さを強く印象づけている。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

※高浜虚子(たかはまきょし)… 明治~昭和期の俳人・小説家。愛媛県松山市生まれ。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰。客観写生・花鳥諷詠を主張し、定型・季語を離れた新傾向俳句を推進する河東碧梧桐と激しく対立した。昭和34年(1959年)没。享年85。

・花鳥諷詠(かちょうふうえい)… 昭和初期に高浜虚子が唱えたホトトギス派の主張。四季の変化によって生ずる自然界の現象およびそれに伴う人事界の現象を無心に客観的に詠むのが俳句の根本義であるとするもの。

シイ - Wikipedia

米槠_百度百科

高明黎 6:24
椎の木 - Yahoo!検索(画像)

Zheng Ju 6:48
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋深雁飞远 青空劈开白云裂 大树柱长天

雪迷 6:57
诗还真是不能翻译的,俳句中用大樹挺好,可在汉语中译成大树就过于直白了,欠了点诗意。独木柱长天,or一木柱长天,都比大树好。 @不会写诗的人 

Zheng Ju 7:00
@雪迷 是的,初思一木,又觉得改得太多

浮雲 7:33
@雪迷 这里把俳句搞成汉俳不是信达雅,而是达雅信。可以有无限的想象力[表情]

高明黎 7:08
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋空气霄汉 梢拔长空劈云断 椎树真雄健

云端 7:12
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

椎木枝叶繁 湛蓝秋空横切断 生机傲九天

还珠格格[表情] 7:23
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋日万里晴 椎木笔直迎风挺 一切两段空

直译。淡口[呲牙]

高明黎 7:25
就剩群主的压轴大戏啦![呲牙][得意]

还珠格格[表情] 7:26
椎有那么高吗?为啥会断天?[调皮]

云端 7:27
@碧空秋水 作者个子矮[呲牙]

木に子 7:27
椎树_百度百科

椎木_百度百科

@Zheng Ju 樹名なし!大丈夫?@高明黎 @云端 @碧空秋水 椎树、椎木あり!勉強になった[抱拳]

还珠格格[表情] 7:30
@木に子 是客家风俗文化艺术的基础呢[强]谢谢[表情]

浮雲 7:31
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

天高云也淡 气抜山河椎大樹 刺断蓝天二

木に子 7:31
据说椎树有20多米高

还珠格格[表情] 7:32
@云端 赶紧爬回去看了一下作者。高浜虚子?女子?[偷笑]

@云端 きょしだから、男子だね〜(^ω^)

木に子 7:36
哈々々,我只会作点蜡给你们嚼[抱拳]
秋 空 二断 栲 大树
栲树高如天 万里晴空断两边 天高云淡间

栲树_百度百科

十六字令 椎
天 万里晴空断两边 椎高树 云淡晚秋间
十六字令韵575俳句
椎高树冲天 万里晴空断两边 云淡晚秋间

还珠格格[表情] 8:55
我也来个十六字的[微笑]

夸张手法[Tongue]

云端 8:56
@碧空秋水 我觉得虚子也是个老爷们[呲牙][呲牙]

木に子 8:57
@碧空秋水 [强]@云端 我发相片了[勾引]

还珠格格[表情] 8:58
@云端 是个矮个子老头儿[Tongue][Rose][Rose][Rose]

@木に子 看到照片了。虚子比那几位俳人长寿[微笑]

雪迷 9:08
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋空两厢悬 树高千仞我为巅 独木擎九天
(即然译成中文,还是要讲究个韵的)

还珠格格[表情] 9:10
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

惊 万里无云秋日晴 椎高耸 如刃断天生

雪迷 9:24
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋空两厢悬 树高千仞我为巅 一柱擎九天
(即然译成中文,还是要讲究个韵的)

LiOu 9:34
中学受験俳句秋篇No.03
秋空を 二つに断てり 椎大樹

秋空断 椎刃柱其间 绿与蓝

承瑶(楊春) 9:45
万物秋声寂 繁华落萧然 唯我一木裂青天

高明黎 13:12
12个比诗更美的冷门词牌,你知道几个

浮雲 16:30
美晕了,美不胜收。让时光到流,在醉梦中和先人大师相约相聚。[表情]

木に子 20:24
十六字令_百度百科

迄今为止的内容请看 http://sxcn.exblog.jp/i21/

@雪迷 [强]@高明黎 [抱拳][抱拳]


感谢微信群"★天涯詩壇★"群主和各位的大力支持!

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# by li_japan | 2016-12-15 23:04 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

毎日一言(2016年12月11-15日)

————— 2016-12-11 —————

木に子 0:12
图片8(可在附件中查看)

笔尖划过纸张的沙沙声,是最动听的乐章。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-11&p=i

高明黎 1:31
ペン先が紙の上でカサカサと鳴っている。その音は、最も人を魅了する交響曲である。

小草 7:38
昨日の翻訳

如果我真的存在,也是因为你需要我。

好いた惚れたも主のため

Zheng Ju 8:36
笔尖划过纸张的沙沙声,是最动听的乐章。

サラサラとペン先が紙の上で人を魅了する楽章を奏でている。

左藝 8:41
ペン先が紙にサラサラと書く音は最も人を魅了する交響曲である

照葫芦画瓢[呲牙]

調べると、交響曲+ソナタ=楽章

交響曲はとっても響きが大きいので、ソナタが良いのかなぁ〜

☆独り言[呲牙]

高明黎 8:56
逆のような気がする。楽章の集合体が交響曲かと思われる。

左藝 8:59
意味
例文
がく‐しょう〔‐シヤウ〕【楽章】 の意味
出典:デジタル大辞泉
ソナタや交響曲などを構成する、完結性を備えた一つ一つの曲。

@高明黎 我错了[呲牙]

高明黎 9:02
確かに、ここでは楽章のままにて翻訳した方がいいかもしれない。

左藝 9:07
奏でる「楽章」って凄く良い[呲牙]

花了很长时间,写了下面的东西。见笑了[呲牙]

☆今天的一句

笔尖划过纸张的沙沙声,是最动听的乐章

ペン先(さき)が紙(かみ)にサラサラと書(か)く音(おと)は
最(もっと)も人を魅了(みりょう)する音楽(おんがく)である

老师们的译文
☆ペン先が紙の上でカサカサと鳴っている。その音は、最も人を魅了する交響曲である
☆ サラサラとペン先が紙の上で人を魅了する楽章を奏でている

【楽章】 の意味
出典:デジタル大辞泉
ソナタや交響曲などを構成する、完結性を備えた一つ一つの曲

☆擬声語=擬音語+擬態語。
今天的一句用了“擬音語”サラサラ。
一直很喜欢日语中的擬声語。挑选了一些介绍给大家
☆鳥的叫声(擬音語)
鸭子~ガーガー
莺=ホーホケキョ
布谷鸟=カッコー
乌鸦=カーカー
山鸡=ケンケン
麻雀=チュンチュン
老鹰=ピーヒョロロ
公鸡=コケコッコー
鸽子=ポッポ
雏鸡=ピヨピヨ
猫头鹰=ホーホー
杜鹃=テッペンカケタカ
山鸟=ホロホロ
☆动物的叫声(擬音語)
狗=ワンワンキャンキャン
牛=モーモー
马=ヒヒーン
青蛙=ケロケロ ゲロゲロ
狐狸=コンコン
猫=ニャーニャー
老鼠=チューチュー
猪=ブーブー
山羊=メーメー
☆自然現象(擬態語)
1天候~うらうら、からっと、からりと、どんより、ぽかぽか、むしむし
2太陽~かんかん、ぎらぎら
3星~ぴかっと、ぴかぴか、ぴかり きらっと、きらきら、きらり
4雲~ぽっかり、ふわふわ、ふんわり
5雨~ぽつぽつ、ぱらぱら、しとしと、ざあざあ、ざんざん
6雪~ちらちら、はらはら、こんこん、しんしん
7風~ひゅうひゅう、ぴゅうぴゅう、びゅうびゅう
雷~がらがら、ごろごろ、ぴかっと

形容人的拟音就更多了。有时间找出来让大家瞧瞧

话说今天一句里用的笔一定是万年筆(钢笔)了吧,那么用的是什么纸呢?还有,写字时的心情呢?
日本,正式的场面用黑色油性圆珠笔,出油流畅,一般听不到什么声音。
看到这样一说:
笔在纸上写字的擬音,用平假名和片假名形容,会让人联想到不同的情景。
☆用平常心来写短文章~「さらさら」
☆集中精力写長文~「かりかり」
☆黙々地熱心地写~「カリカリ」
☆力度附加感情写~「ガリガリ」
☆卡通片里的人物*岸部露伴写字的声音是「ズァーーズバッ」
*岸部露伴—漫画家荒木飛呂彦笔下的架空人物,卡通片《ジョジョの奇妙冒険》的主人公

Zheng Ju 12:45
厉害☆

左藝 12:48
@Zheng Ju 谢谢您的译文,谢谢您看了自己的空间,谢谢您现在的赞

MIKI 18:08
@左藝 いつも有り難うね〜☆☆勉強になりました☆

木に子 18:24
@左藝 素晴らしい![玫瑰][玫瑰][玫瑰]




————— 2016-12-12 —————

木に子 0:18
图片1(可在附件中查看)

时间就像一张网,你撒在哪里,你的收获就在哪里。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-12&p=i

Zheng Ju 7:48
时间就像一张网,你撒在哪里,你的收获就在哪里。

時間は網と同じく、かけた分収穫が上がる。

高明黎 7:58
時間は投網のようで、投げただけ漁が決まる。

左藝 9:27
時間は網のよう、張る所にだけ収穫がある

教えてください:網、漁網以外、後何の網があるのですか?調べたけれど、見つからない

木に子 9:32
電力網

天羅蜘網

時間は網、どこに張っても得る。

左藝 9:39
かけると収穫できる網はどんな網ですか?

seiji☆☆morisako 9:40
時間は投網の様な物で、費やした分、方向性で収穫が決まります。

小草 10:41
说到底,你在一件事,投入多少,决定 你能承受多大的压力,能坚守多长时间,伟大都是熬出来的。

因为普通人承受不了的你得承受。

今日翻译

时间就像一张网,你撒在哪里,你的收获就在哪里。

時間は網と同じで、かけた時間で収穫が決まる。




————— 2016-12-13 —————

左藝 1:25
图片2(可在附件中查看)

历史不会因时代变迁而改变,事实也不会因巧舌抵赖而消失。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-13&p=i

歴史は時代変遷のために変わることがなく 事実も詭弁のために打ち消されることがない

歴史は時代の変遷によリ変わることはなく 事実も言い逃す詭弁により打ち消されることはない

大傑 6:20
歴史は時代の変遷によリ変わることがなく ,事実も詭弁で言い逃しにより打ち消されることはない

木に子 7:28
歴史は時代変遷でも不変、
事実は饒舌多弁でも不滅。

歴史は女の衣装、
事実は雲の化粧。

左藝 7:34
照片已经做好了,没时间改[流泪]

木に子 7:36
@左藝 老師、例の絵について、12時を過ぎたら、httpから叩いてみて下さい

左藝 7:36
图片3(可在附件中查看)

Zheng Ju 8:12
历史不会因时代变迁而改变,事实也不会因巧舌抵赖而消失。

歴史は時代の変遷によって変わらず、事実も饒舌詭弁によって消えることはない。

蒲公瑛 8:14
今日の一言良いですね[玫瑰][强]

左藝 12:00
☆今天的一句

历史不会因时代变迁而改变,事实也不会因巧舌抵赖而消失

歴史(れきし)が時代(じだい)の変遷(へんせん)によリ変(か)わることはなく
事実(じじつ)も言(い)い逃(のが)す詭弁(きべん)により打(う)ち消(け)されることはない

老师们的译文
☆歴史は時代の変遷によリ変わることがなく ,事実も詭弁で言い逃しにより打ち消されることはない
☆歴史は時代の変遷によって変わらず、事実も饒舌詭弁によって消えることはない
☆歴史は時代変遷でも不変、事実は饒舌多弁でも不滅
※☆是李老师的译句,很少见,出奇的没毛病☆☆☆☆

☆【12月13日】南京大屠杀国家公祭日

2014年2月27日,中国十二届全国人大常委会第七次会议通过决定,将每年的12月13日设立为南京大屠杀死难者国家公祭日。
今天的一句,是习近平在会议讲话中的一句

今年的12月13日,是南京大屠杀30万同胞遇难79周年纪念日,也是第三个国家公祭日。

今晨7:00,侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆,进行升国旗和下半旗仪式。南京全城将默哀一分钟…
南京市人民政府公告:
今天10☆00南京大屠杀死难者国家公祭仪式开始。在现场奏唱《中华人民共和国国歌》之后(约10☆01),全市主城区范围内道路上(不含高速公路、绕城公路、城市高架、隧道)行驶的机动车(正在执行紧急任务的特种车辆除外)应当停驶鸣笛致哀1分钟,火车、船舶同时鸣笛致哀,道路上的行人和公共场所的所有人员(正在从事特种生产作业的人员除外)也同时就地默哀

出生于南京的自己
喜欢找朋友说说南京话
喜欢南京的街道
喜欢南京的板鸭
喜欢南京的烧鹅
喜欢梅园新村
喜欢夫子庙
喜欢新街口
喜欢鼓楼、雨花台
尤其喜欢南京的梧桐树…

这一天
南京城里警报响起
我们不在同一时空
却同为铭记…

木に子 18:11
@左藝 很少见,出奇的没毛病☆☆☆☆
はっはっは 笑っちゃったよ 毛病けり

前五和后五交换一下好象更好[呲牙]
毛病けり 笑っちゃったよ はっはっは




————— 2016-12-14 —————

木に子 6:35
图片4(可在附件中查看)

在人之上要看得起人,在人之下要看得起自己。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-14&p=i

左藝 7:13
人の上に立ってば他人を大切にして、人の下にいると自分を大切にする

人の上に立つと他人を大切にして、人の下にいると自分を大切にする

Zheng Ju 7:26
在人之上要看得起人,在人之下要看得起自己

人の上に立つ時、他人を見下すな;人の下にいる時、自分を見下すな。

木に子 9:50
上司は部下を信頼、部下は自分に自信。

左藝 10:16
☆今天的一句

在人之上要看得起人,在人之下要看得起自己

人(ひと)の上(うえ)に立(た)つ時(とき)、他人(たにん)を見下(みくだ)すな;
人(ひと)の下(した)にいる時(とき)、自分(じぶん)を見下(みくだ)すな

☆老师的译文,把“要看得起”转换成“不要看不起”,觉得非常适合☆

自己的译句
人の上に立つ時 他人を大切にして
人の下にいる時 自分を大切にする

☆找了一些“看不起”的类似词条:

1) 見下す(みくだす)
☆下の方を見る。みおろす。「山の頂上から下界を見下す」
☆相手をばかにして見る。あなどりみる。見さげる。「人を見下した態度」

2) 見下る(みさげる)
劣っているとして軽んじる。軽蔑する。「見下げた口のきき方をする」

3) 嘲る(あざける)
ばかにして悪く言ったり笑ったりする。「人の失敗を嘲る」
4) 見縊る(みくびる)
軽視する。あなどる。見さげる。「ずいぶん人を見縊ったやり方だ」

5) 侮る(あなどる)
人を軽くみてばかにする。軽蔑する。見下す。「侮って油断するな」「侮りがたい敵」

6) 卑しめる(いやしめる)
下品な、とるに足りないものとして見下げる。軽蔑する。さげすむ。
蔑む

7) 貶める (おとしめる)
☆劣ったものと軽蔑する。さげすむ。見下す。「人を貶めるような言い方をする」
☆下落させる。成り下がらせる。「社名を貶める行為」
……
很欣赏今天一句的做人道理
也很欣赏大学同学的微信上的个性签名:
对高于自己的人,把自己当人
对低于自己的人,把别人当人

昨天,牙疼肿了半边脸,不得不去了牙科医院。觉得不合理的是,牙医在治疗时总是往下看着自己,而我的眼睛却被毛巾盖住了…

木に子 10:28
@左藝 早く治ると良いですね

大傑 10:40
@左藝 お大事に。因为患者躺着,医生手术操作往下看是最适合医生患者的姿势。给患者盖上毛巾是为避免患者眼睛受强光刺激,也避免医生患者短目相接互相尴尬。初到日本牙医时,为日本人的细心感动

左藝 10:54
@大傑 受けるのは大事[呲牙]喜欢

高明黎 18:32
人の上に立つ人は、他人に敬意を払うべき。人の下にいる人は、自分に自信を持つべき。

晓寜 18:34
·人はみな 平等であるのでは そう思いますが、、、、

前、後ろの表現がいいと思います

木に子 19:29
再挑戦
目下の者には目上で、目下になったら自信を。

Zheng Ju 22:10
什么意思?
目下の者には目上で

高明黎 22:25
多分、上目線の意味ではなく、目上の人だけではなく下の人に対しても一目を置くと言う意味かと思います。群主さまのお言葉は僕が解読できます。[呲牙][得意]

突拍子のないところが、すごくいいです。

めした【目下】の意味 - goo国語辞書

もっか【目下】の意味 - goo国語辞書

左藝 22:36
@高明黎 お疲れ様[呲牙][呲牙]




————— 2016-12-15 —————

左藝 4:50
图片5(可在附件中查看)

话别说太满,事别做太绝。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-15&p=i

晓寜 7:47
[昨日]目上、目下がイイね〜[OK]@木に子 @高明黎 

Zheng Ju 7:55
话别说太满,事别做太绝。

話に余裕を、することに余地を。

木に子 8:08
話には余裕、敵には退路。

@Zheng Ju @高明黎 @马小宁☆ 昨日もありがとうございます。再々挑戦
目下にも平等を、自ら目下も自信を。

左藝 8:38
@Zheng Ju “满”琢磨了好久,没能想出来。“余裕”,良いですね〜[强]

又悟到了一个:想不出来的时候绕道走!

学习了☆

@木に子 「自ら目下」との意味がわからない[微笑]

蒲公瑛 8:51
有画蛇添足之嫌啊[微笑]

左藝 8:51
想到一个办法,就是您的日语句子后面加上中文解释,可能就可以理解了

木に子 8:52
@蒲公瑛 蛇足も歓迎[勾引]@左藝 在人之下のつもり[抱拳]

@蒲公瑛 なるほど[抱拳]
目下にも平等、目下なら自信。
これはどう?
在人之上要看得起人,在人之下要看得起自己。

蒲公瑛 9:03
素晴らしい☆

木に子 9:05
@左藝 @蒲公瑛 [抱拳]
受家妹启发 自ら确实是蛇足 愚兄有礼了

蒲公瑛 9:27
这叫心有灵犀一点通啦[呲牙][呲牙][呲牙]

大傑 9:30
群主,群姐,群主的家妹,都是一家人[呲牙]

左藝 9:31
話しをするには余裕を

ことをするには余地を

☆照葫芦画瓢

Zheng Ju 9:34
話には余裕を

事には余地を@左藝 更に短い

木に子 9:37
@Zheng Ju 这个好[强] @左藝 
先谢左家妹 你是当惯姐々拉 你若不接茬 怎会有了那个句[玫瑰]
@蒲公瑛 
再谢李家妹 心有灵犀一点通 这个说得妙
@大傑 
再谢李家弟 总得有人和稀泥 或称捣浆糊

左藝 9:39
这样就对了。话要分开说

大傑 9:44
@木に子 李家天下时也非人人都是李家人

木に子 9:46
@大傑 让她也嫁到李家不就是了[呲牙]

大傑 9:54
@木に子 可惜我只能娶不能嫁[偷笑]

左藝 10:06
@大傑 还想娶?[惊讶]

大傑 10:09
@左藝 实际上现在连娶都沒资格[流汗]

左藝 10:11
嗯,得刷一个才能加一个[偷笑]

今天的作业做完了[呲牙]

☆今天的一句

话别说太满,事别做太绝

話(はなし)には余裕(よゆう)を
事(こと)には余地(よち)を
☆,老师的译文

今天的句子看上去简单,译起来难。不过,学会了一招,就是:想解决问题并不需要迎着困难上,有时候也可以绕道走。比如今天的“满”可以用“余裕”替代

找到了几句话,觉得挺好的:

☆满招损 谦受益
うぬぼれは損失を招き、謙虚さは利益をもたらす
☆月圆必有月缺
月(つき)満つれば則(すなわ)ち虧(か)く ~物事は盛りに達すれば必ず衰えはじめるというたとえ
☆不要把话说绝了
結論じみたことを言うな,話には余裕を残しておけ

☆ ☆是谁说的?

梦,不能做得太美,美了难以实现
话,不能说得太满,满了难以圆通
调,不能定得太高,高了难以合声
事,不能做得太绝,绝了难以进退
情,不能陷得太深,深了难以自拔
利,不能看得太重,重了难以明志
人,不能做得太假,假了难以交心
世,不能看得太清,清了难以作为

…做了很久很久的梦,昨天晚上圆了:托哥哥、朋友的福,找到了久违的高中同学!找到的很久以前的记忆!太感谢,太高兴了…☆☆我可以回家了❗️

木に子 10:52
@左藝 お疲れさん

☆叶子☆ 11:18
当惯了大姐的人,突然有人称其为家妹,心里这个乐啊,就别提多美了![偷笑][偷笑][偷笑]

蒲公瑛 11:21
喂喂、群主一直称呼我为家妹、几十年如一日了、你问群主。

☆叶子☆ 11:26
几十年了?[惊讶][惊讶]

蒲公瑛 11:27
是啊、你问群主

☆叶子☆ 11:30
.最近莫言的一段话火了,“朋友或是情人,能走过三个月的已不容易,能坚持六个月的值得珍惜,能相守一年的堪称奇迹,能熬过两年的才叫知己,超过三年的值得记忆,五年后还在的,应该请进生命里。十年后依然在的,那就不是朋友了,已经是亲人,是生命的一部分了!”在这个善变的时代,且行且珍惜!感恩和我相处不离不弃的朋友!
——致每一个走入心里的人![调皮]

高明黎 21:23
話別說太滿,事別做太絕。

說話要給自己留下轉圜的餘地
做事要給自己留下進退的餘地

物言は挽回できる余地を残す。
物事は進退できる余地を残す。



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# by li_japan | 2016-12-15 16:03 | 一言一会 | Comments(0)

赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり/正岡子規

————— 2016-12-14 —————

木に子 5:51
各位、冬の句は一段落にし、秋の句を少し補足学習します。データに少し不備があり、いま作り直してますので、もう少しお待ちください。

中学受験俳句秋篇No.01
秋深き 隣は何を する人ぞ
【参考】 http://sxcn.exblog.jp/23564582

1214(三)中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
【作者】正岡子規
【季/季語】秋/赤とんぼ
【説明】空は秋晴れで、遠くに見える筑波山の上には一片の雲もない。そんな空を一匹の赤とんぼがゆうゆうと飛んでいる。
【発音】赤(あか)とんぼ/筑波(つくば)に雲(くも)も/なかりけり

晴れて澄み渡った秋空のもと、野には赤とんぼたちが静かに、ゆうゆうと飛び舞っている。はるかに望む筑波山には、一片の雲さえないことだ。

眼前の赤とんぼの群れと、筑波山の遠景との調和が見事である。見た光景をありのままに描き出しながら、明るく静かな秋の情感をしみじみと伝えてくる。(秋・初句切れ)

※赤とんぼ… 秋の季語。テストで頻出。ちなみに「とんぼ」も秋の季語であり、夏の季語と間違えやすいので注意。
※筑波(つくば)… 筑波山。茨城県中部、関東平野にそびえる山。標高877 m。西側に位置する男体山(なんたいさん)と、東側に位置する女体山(にょたいさん)からなる。古くは「万葉集」にも詠まれ、日本百名山の一つに挙げられている。百名山の中では最も標高が低い。
※なかりけり… 一つも無いことだなあ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、[表情]句切れ(文としての意味の切れ目)、[表情]作者の感動の中心を表す。

※初句で切れ、また、結句にも詠嘆が込められているので、本来は二段切れ。
※二段切れ… [表情]一句に切れ字を二つ用いたり、[表情]名詞による切れ目を作ることで感動の焦点が二か所に分散、互いに相殺されることで作品として失敗する場合が多いので嫌われる。しかし、名詞による切れ目は俳句では一般に用いられているので、これを敢えて二段切れと呼ぶ意味合いは薄れている。どちらに強い詠嘆を込めるかは作者の感覚によるところが大きい。
例:
[表情]松籟(しょうらい)や ・ 百日の夏来たりけり(中村草田男)
[表情]赤とんぼ ・ 筑波に雲もなかりけり(正岡子規)
d0007589_8402746.png

筑波山

云端 7:23
中学受験俳句秋篇No.01
秋深き 隣は何を する人ぞ

叶落已秋深 隔壁彻夜灯缤纷 不知是何人

天色寒 隔壁老王烦 找城管(通俗版)

还珠格格[表情] 7:37
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

悠哉红蜻蜓 翘首仰望筑波顶 无云天空晴

Zheng Ju 7:48
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

蓝天红蜻蜓 筑波山头舞轻盈 云归昨夜风

张佶 9:18
云归昨夜风 蓝天红蜻蜓 筑波山头俏 漫天舞轻盈

Zheng Ju 9:29
云归昨夜风 蓝天舞蜻蜓 筑波山头俏 遥见一点红

云端 8:14
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

无云一碧空 筑波巍然天际耸 曼舞红蜻蜓

木に子 8:17
《红蜻蜓》
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり
红蜻蜓 筑波山上 云也 没有
一匹か? 違うでしょうね いっぱいぞ
秋晴れの下、赤蜻蛉たちが母なる筑波山に見守られながら飛んでいる。それは、青い空に浮かび上がる赤の天使と言っても過言ではない。
この説に同感します。
秋高气又爽 筑波青空群飞舞 红蜻蜓成云
秋高无白云 筑波青空尽赤虹 飞舞蜻蜓群

好像走样了。元の意味と違ってきたかと感じました

还珠格格[表情] 8:34
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

天使红蜻蜓 筑波山中飞舞轻 晴空露水映

觉得红蜻蜓翩翩飞舞好像小天使一般可爱[愉快]

木に子 8:35
同感

Zheng Ju 8:40
タイトルなし

木に子 8:43
红蜻蜓 飞舞筑波秋 晴无云
秋高气爽晴 筑波青空无云坪 天使红蜻蜓

高明黎 9:55
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

纷飞红蜻蜓 筑波羞怯隐崚嶒 彩云遁潜形

还珠格格[表情] 10:01
@高明黎 彩云躲起来了[Grin][Rose][Rose] @木に子 此亦同感[Fight]

浮雲 17:11
中学受験俳句秋篇No.02
赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり

蓝天赤蜻蜓 筑波山勇扑昆虫 大肚圆撑得



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# by li_japan | 2016-12-14 08:33 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと/松本たかし

————— 2016-12-13 —————

高明黎 2:24
1213(二)中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと
【作者】松本たかし
【季/季語】冬/雪だるま
【説明】寒い冬の夜の、さびしそうな雪だるま。しかし、晴れた夜空には星がちかちかとおしゃべりをしているようで、雪だるまもそれを聞いてい るみたいだ。
【発音】雪(ゆき)だるま/星(ほし)のおしゃべり/ぺちゃくちゃと

木に子 5:43
ひっそりと静まりかえり、空気がひんやりと冷たい真冬の夜の雪景色。澄(す)みきった空一面を覆(おお)って、賑(にぎ)やかに煌(きらめ)いているのは無数の星たち。まるで楽しそうにおしゃべりをしているかのようだ。そんな星たちを見つめながら、寂しそうな雪だるまがひとつ、じっと星のおしゃべりに聞き入っている。

その声が聞こえてくるわけでもないのに、星たちのおしゃべりはいかにも楽しそうで、そして随分と賑やかそうだ。煌めく星々を擬人化して表現することで、雪だるまもまた単なる一景物にとどまらず、生きた親しみのある存在としてとらえ直される。真冬の夜の天空に広がる無辺の宇宙、そして、清澄な空気の中で繰り広げられる静寂とのひっそりとした対話。日常のすぐそばにあって、それでいて我々が気づかないでいる大切な世界を垣間見るような、そして、童話の世界や夢の世界に入り込んだような、そんな不思議な感覚にとらわれてくる。(冬・初句切れ)

※雪だるま… 冬の季語。
※雪だるま… 雪だるまが一つあることだ、と詠嘆が込められている。
※星のおしゃべり… 擬人法。星々の瞬くさまを、まるで「賑やかにぺちゃくちゃとおしゃべりをしているようだ」と、その感じを人の動作にたとえて表している。

※ぺちゃくちゃと… 実際にそれらしい音声として聞こえる場合は擬声語(擬音語)だが、星々の瞬くさまを擬人化し、「ぺちゃくちゃと賑やかにおしゃべりをしている」様子に見立てており、当然、音声は一切聞こえないので擬態語と考えてよいだろう。
※擬人法… 人間ではないものを人間がしたことのように表す比喩表現の一種。「ヒマワリがニコニコと笑っているよ」「救急車が悲鳴を上げている」「光が舞う」などは、人間ではないものごとに人間の動作(動詞)を当てて表現している擬人法の例である。他に、「風のささやき」「山々のあでやかな秋化粧」「冬将軍」「光の舞」など、名詞で表される場合もあるので注意する。

※擬態語… ものごとの状態や様子を言葉に表したもの。「にこにこ(と)」「いらいら(と)」「ぴかっ(と)」の類。平仮名で表記する。
※擬声語(擬音語)… 声や音を真似て作った言葉。「ワンワン(と)」「ゴロゴロ(と)」「ザーザー(と)」の類。片仮名で表記する。

[表情]季語と季節の特定、表現技法、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

※拗音(ようおん)… 「キャ」「シャ」「チャ」「クヮ」「グヮ」のように二字の仮名で書き表す言葉で、一音として数える。ちなみに、「お父さん(オトーサン)」のように長くのばす音を「長音」といい、長音はそれで一音として数えるので、「オトーサン」は五音である。また、「切手(きって)」のようにつまる音を「促音(そくおん)」といい、促音はそれで一音として数えるので「キッテ」は三音となる。さらに、「単語(タンゴ)」のように「ん(ン)」で表される音を「撥音(はつおん)」といい、撥音はそれで一音として数えるので「タンゴ」は三音となる。俳句や短歌の学習で音数を数える時には、その数え方に注意しよう。

※松本たかし(まつもとたかし)… 昭和の俳人。東京生まれ。代々続いた能楽役者の家の長男に生まれたが、健康に恵まれないために家業を廃した。高浜虚子に師事、ホトトギス同人となる。伝統的なホトトギスの線を守り、洗練された、上品、高雅な句境をもつ。昭和31年(1956年)没。享年50。

・「ホトトギス」… 俳句雑誌。1897年(明治30年)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主催。写生を主唱として今日に至る。夏目漱石の小説も掲載され、また、写生文の発達にも貢献した。

@高明黎 
高老师 お疲れさま 谢々您
《雪人》
冬夜 雪人 与星々说话 叽里咕噜
冬夜一雪人 语音聊天连星群 叽里咕噜D
夜雪人 与星群聊天 听不懂

高明黎 6:34
中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

雪人何寂寞 密罗棋布星闪烁 喋喋星语诺

云端 7:19
中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

雪人望夜空 静听繁星私语声 云淡雪初晴

还珠格格[表情] 7:31
中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

寂寞寒冬夜 雪人望星说趣话 笑弯峨眉月

Zheng Ju 7:37
中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

冬夜星低垂 东边调情西边和 忘了有雪人

浮雲 9:05
中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

隆冬三更起 雪人对星说痴語 白日雪星没

小草 9:21
@木に子 先生 早上好!辛苦了!
每天读着美句,还有分析讲解,真的觉得好奢侈啊。[偷笑]

接下来再拜读各位“大家”情趣盎然的翻译及著诗,真心学习了。[抱拳]敬茶

中学受験俳句冬篇No.13
雪だるま 星のおしゃべり ぺちゃくちゃと

寒冬万籁寂 星星相聚絮不尽 雪人望无尽

LiOu 23:33
中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな

青山远 夕照枯草乱 流霞暗

嗯?好像不是今天的?



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# by li_japan | 2016-12-13 08:33 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと/加藤楸邨

————— 2016-12-12 —————

木に子 23:27
1212(一)中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと
【作者】加藤楸邨
【季/季語】冬/冬
【説明】冬の浅間山が、寒風が吹きすさぶ中、たくましく立っている。まるで、父が励ましてくれているようだ。「・・・のごと」=・・・のようだ。
【発音】冬(ふゆ)の浅間(あさま)は/胸(むね)を張(は)れよと/父(ちち)のごと
d0007589_8594689.png

高明黎 23:45
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

冬季浅间山 教我挺胸傲尘寰 凛然如父颜

Zheng Ju 6:32
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

寒冬浅间山 巍然耸立似严父 教我度困苦

木に子 6:54
寒風(かんぷう)吹きすさぶ中、雄大に、そして毅然(きぜん)と立ち聳(そび)える冬の浅間山(あさまやま)は、たくましくあれ、胸を張って生きよと、私を励(はげ)ましてくれている父親のようだ。

冬の浅間山の力強く堂々とした姿を眼前にして、その圧倒的な存在感に感動している。大きな自信を与えられるような思いを抱くほどに、その姿は勇壮であり、雄大である。(冬・句切れなし)

※冬… 冬の季語。
※浅間(あさま)… 浅間山(あさまやま)。群馬・長野両県にまたがる活火山(かっかざん)。
※父のごと… 父親のようだ。

※七七五の破調。
※父のごと・・・ 比喩(直喩)。「父のように」の意でたとえている。俳句・短歌・詩などの問題で、口語の「ようだ」「みたいだ」に当たる文語の助動詞「ごとし」(「ごとく」「ごとき」「ごとくに」なども同じ助動詞)の比喩(直喩)としての用法が知識として問われる場合が多いので注意。

※加藤楸邨(かとうしゅうそん)… 昭和~平成の俳人。松尾芭蕉の研究家。東京生まれ。俳句の世界を単なる趣味的なものではなく人生探究の場と主張し、実践。中村草田男、石田波郷と共に人間の内面を詠む「人間探求派」と呼ばれた。平成5年(1993年)没。享年88。

云端 7:05
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

寒冬望浅间 教我挺胸迈向前 父爱真如山

还珠格格[表情] 9:07
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

浅间山 傲霜斗雪寒 厉父颜

我父亲 对我不严厉 是慈父[调皮]

浮雲 18:32
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

冬浅间似枪 挺胸抬头镇四方 父亲永恒榜样

小草 19:01
中学受験俳句冬篇No.12
冬の浅間は 胸を張れよと 父のごと

银装浅间山 凌霜傲雪独自寒 父亲雪中来
d0007589_993639.png

冬の浅間山

木に子 19:54
《浅間山》 严重雾霾中 于北京
軽井沢 からも奇麗に 見えました
冬 浅间山 挺着胸 与父亲一样
浅间山 冬天也挺胸 如父亲
巍峨浅间山 冰天雪地也挺胸 雄姿如父亲
一挑战 十六字令俳 东钟韵
平 中仄平平仄仄平 平平仄 中仄仄平平
龙 地冻天寒也挺胸 浅间山 如父似苍松
山敖浅间龙 地冻天寒也挺胸 如父似苍松
再挑战 十六字令俳 寒山韵
平 中仄平平仄仄平 平平仄 中仄仄平平
山 名浅间霜雪严寒 如慈父 屹立在云端
慈父如大山 名浅间霜雪严寒 屹立在云端



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# by li_japan | 2016-12-12 08:47 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

初時雨 猿も小蓑を ほしげなり/松尾芭蕉

————— 2016-12-11 —————
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木に子 23:19
1211(日)中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり
【作者】松尾芭蕉
【季/季語】冬/初時雨
【説明】山中で時雨が降ってきた。冷たい時雨にぬれる猿のすがたは、小さい蓑をほしがっているようだ。「小蓑」は、今で言うかっぱのこと。
【発音】初(はつ)時雨(しぐれ)/猿(さる)も小蓑(こみの)を/ほしげなり
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Zheng Ju 0:11
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

入冬初逢雨 猴子也羡慕蓑衣 树下干着急

高明黎 0:49
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

初冬雨 毛湿猴叫苦 欲蓑褛

木に子 0:57
寂(さび)しい山中の道をたどっていると、この冬初めての時雨(しぐれ)が降ってきた。ふと樹上を見ると、猿がぽつんと雨に濡(ぬ)れそぼっている。寂しい思いで旅をしている私は、そのしょんぼりとした猿の姿に哀れを誘われ、猿もきっとこの雨に困って、小さな蓑(みの)を欲しがっているのだろうよ、と思ったことだった。

寂しい山中で遭(あ)った生き物への懐かしさや親愛感が伝わり、また、猿の悲しい境遇、哀(あわ)れさを芭蕉自身の姿に重ね合わせて詠んでいる。(冬・初句切れ)

※初時雨(はつしぐれ)… 冬になって初めて降る時雨。冬の季語。
※初時雨… 初時雨であることだ、という詠嘆を表している。
※時雨(しぐれ)… 晩秋から初冬にかけて、ぱらぱらと降ったりやんだりする雨。冬の季語。テスト頻出。
※小蓑(こみの)… 藁(わら)・かや・すげ・しゅろなどで編んで作った、肩から羽織る雨具が「蓑(みの)」だが、これを羽織るのが猿と見立てているため、「小」を付けてある。
※ほしげなり… 欲しそうにしている様子だ。

※元禄二年(1689年)冬、芭蕉46歳の時の作。芭蕉が「おくのほそ道」の旅を終えた後、伊勢(いせ:伊勢神宮)の遷宮(せんぐう)を拝み、故郷である伊賀(現三重県中西部)へ帰る山中での吟。

※伊勢の遷宮… 伊勢神宮で二十年ごとに本殿を改築し、神霊を移す儀式。次回は第62回目、平成25年に行われる。

[表情]季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。
※「猿蓑(さるみの)」所収。
※この句については別の解釈がある。
・寂(さび)しい山中の道をたどっていると、この冬初めての時雨(しぐれ)が降ってきた。冷たい雨ではあるが、もうこの季節初めての時雨に遭(あ)ったのかと思うと、妙に気持ちが高ぶってくる。樹上にいて雨に濡(ぬ)れそぼっているお猿さんよ、お前も小さな蓑を着て、この初時雨の風情を楽しみたいのかいと、何とはなしに弾(はず)んだ気持ちで猿に呼びかけたことだった。

初句「初時雨」にある「初」に読めるのは、その年初めての時雨に遭(あ)った芭蕉の軽い興奮、また、その風情を楽しみたいという弾んだ気持ちであるとし、単なる猿への同情心からではなく「お猿さんよ、お前も小蓑をつけてこの初時雨の風情を楽しみたいのかい」と呼びかけているとするとらえ方である。

[表情]季語と季節の特定、鑑賞や主題など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。

[表情]蓑(みの)
※初句で切れ、また、結句にも詠嘆が込められているので、本来は二段切れ。
※二段切れ… [表情]一句に切れ字を二つ用いたり、[表情]名詞による切れ目を作ることで感動の焦点が二か所に分散、互いに相殺されることで作品として失敗する場合が多いので嫌われる。しかし、名詞による切れ目は俳句では一般に用いられているので、これを敢えて二段切れと呼ぶ意味合いは薄れている。どちらに強い詠嘆を込めるかは作者の感覚によるところが大きい。

例:
[表情]松籟(しょうらい)や ・ 百日の夏来たりけり(中村草田男)
[表情]赤とんぼ ・ 筑波に雲もなかりけり(正岡子規)

※松尾芭蕉(まつおばしょう)… 江戸前期の俳人。伊賀上野の人。江戸深川の芭蕉庵に移った頃から独自の蕉風(しょうふう)を開拓。各地への旅を通じて、不易流行(ふえきりゅうこう)の思想を形成し、俳諧を文芸的に高めた。「おくのほそ道」「野ざらし紀行」「更級日記」「笈の小文」など。元禄七年(1694年)十月十二日(新暦11月28日)没。享年51。

・蕉風(しょうふう)… 松尾芭蕉およびその門流の信奉する俳風。美的理念としては、幽玄、閑寂を重んじ、さび・しおり・細み・軽みを尊ぶ。

・不易流行(ふえきりゅうこう)… 蕉風俳諧の理念の一つ。俳諧には不易(時代を超えて変わらないこと)の句と流行の句とがあるが、流行の句も時代を超えて人々に訴えればそれは不易の句であり、ともに俳諧の本質を究めることから生じ、根本は一つであるという論。

※「おくのほそ道」… 松尾芭蕉の俳文紀行。元禄二年(1689年)3月末江戸を出発し、東北・北陸を巡り美濃大垣(岐阜県)に至る約150日間、およそ六百里(約2400㎞)の旅日記。洗練された俳文・俳句は芭蕉芸術の至境を示している。元禄七年(1694年)頃成立。元禄十五年(1702年)刊。芭蕉自身は「奥の細道」ではなく「おくのほそ道」という表記を好んで用いていた。原文の題名もこの表記となっている。

小草 6:11
柳宗元の诗を思い出す:

千 山 鳥 飛 絶
万 径 人 蹤 滅
孤 舟 蓑 笠 翁
独 釣 寒 江 雪

高明黎 6:47
李白…朝辞白帝彩云间,千里江陵一日还,两岸猿声啼不住,轻舟已过万重山。。。今天听来,[表情]似乎在要蓑衣[呲牙][得意]

木に子 7:15
小生は 「別の解釈」 に同感
初冬遇时雨 猴子也想披蓑衣 乐游寂山中
于天津 看到北极星 天空晴

还珠格格[表情] 8:39
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

年初雨绵绵 无笠猴狲打寒战 不忍心生怜

@高明黎 李白大概遇上一群猴[偷笑]

高明黎 8:42
@碧空秋水 李白大师就一件蓑衣[呲牙][得意][调皮]

云端 10:31
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

新年初阵雨 猿猴身上湿沥沥 多想披蓑衣

高明黎 18:09
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

七绝 奥之细道纪行…入冬初雨雾遮穹,细道云游耳荡风,寒气袭人惊忽唤,猿猴欲索我蓑篷。

浮雲 18:13
中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

雨打蓑衣开,不知中身是谁来,
人与猴同在。

高明黎 18:19
@浮雲 [呲牙][得意]仁兄有道理。猴子淋湿了的样子,和人穿蓑衣差不多![惊讶]

木に子 18:22
@浮雲 兄[强]
[表情]俳句と川柳などの行の格式
* 一句は一行のみ、区切りは半角のスペース。例えば:
閑寂古池旁 青蛙跳入水中央 撲通一聲響
古池碧水深 青蛙“扑通”跃其身 突发一清音

还珠格格[表情] 18:39
@高明黎 高老师又出新花样了[呲牙][强][强][强]

高明黎 19:00
@碧空秋水 [呲牙]无病呻吟…只觉得意境挺好,没事凑一首!

浮雲 19:09
@高明黎 我当时想,人不是都从??子哪儿变过来的吗?哈哈[表情]

中学受験俳句冬篇No.11
初時雨 猿も小蓑を ほしげなり

雨打蓑衣开 不知中身是谁来 人与猴同在

还珠格格[表情] 19:15
@高明黎 诗意相通了[呲牙]



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# by li_japan | 2016-12-11 08:47 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

毎日一言(2016年12月6-10日)

————— 2016-12-6 —————

木に子 0:16
图片1(可在附件中查看)

一万个美丽的未来,抵不上一个温暖的现在。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-06&p=i

左藝 2:55
美しい万個の未来があっても 温かい一個の今にもならない

一万個美しい未来があるとしても 一つの温かい今には及ばない

高明黎 6:57
美しい夢の一万でも、暖かい現実の一つに及ばない。

Zheng Ju 7:38
一万个美丽的未来,抵不上一个温暖的现在。

美しい未来が一万あると云われるより、暖かな現実を一つ欲しい。

夢のない格言だね。夢がなくなるなぁ〜。

seiji☆☆morisako 7:51
数ある美麗な未来よりも安らかな現実に勝る事はない。

Zheng Ju 9:22
絵に描いた餅より目の前の握り飯。

木に子 9:23
嘘バチより今

《十六字令》平仄讲座 by 高明黎 : 一言一会/那三届




————— 2016-12-7 —————

木に子 0:21
图片2(可在附件中查看)

雪花盛开着温暖,火炉包围着慵懒——大雪 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-07&p=i

Zheng Ju 0:35
雪花盛开着温暖,火炉包围着慵懒——大雪

雪に暖かさ満開、炉で怠さを包囲ーー大雪の日

木に子 6:10
2015年圣诞节祝福语大全:20条圣诞节祝福语

雪の花で温暖を、炉の火で安堵を。大雪にて

温暖と慵懒をわざと入れ替えた?

高明黎 8:08
雪の花は満開にして温暖である。囲炉裏が怠惰さを囲んでいる。。。大雪

左藝 9:08
雪花が温もりを散らす 暖炉が疲れを囲む




————— 2016-12-8 —————

木に子 0:02
图片3(可在附件中查看)

小时候,哭着哭着就笑了;长大后,笑着笑着就哭了。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-08&p=i

左藝 0:38
小さい頃に 泣いて泣くうちに笑ってしまい 大きくなると 笑って笑ううちに泣いてしまった

☆叶子☆ 6:52
幼い頃に 泣いて泣いて泣いているうちに笑ってしまい 大人になると 笑って笑って笑っているうちに泣いてしまった。

小さい=small,大きい=big

晓寜 6:54
我怎么就不会笑着笑着能哭出来呢[晕]

我是反过来,哭着哭着能笑出来的时候有

木に子 6:56
@马小宁☆ 还没长大[呲牙]

☆叶子☆ 6:56
@马小宁☆ まだ幼い[偷笑][偷笑][偷笑]

晓寜 6:58
想体验一下那种感觉……

木に子 7:04
@马小宁☆ きかいがあれば、そうさせてみよう。しかし、そなたに会った事がない[呲牙]

seiji☆☆morisako 7:06
叶子さんのが簡潔で良いと思います✋‍♂️

木に子 7:13
@左藝 @叶子 群规より*关于半角空格的规则:俳句中用作分隔符,在网页编辑程序中也被用作自动检测该行是否俳句的标志。因此仅俳句行里可用,非俳句行里不可用。お願いします。

子供は泣いてる内に笑い、
大人は笑ってる内に泣く。

seiji☆☆morisako 7:19
子供の頃、大人になってから、にしたほうがいいと思いますよ

木に子 7:21
@seiji☆☆morisako 正確にはね。飛ばし過ぎ[呲牙]

泣いてる内に笑う子供
笑ってる内に泣く大人

Zheng Ju 8:40
小时候,哭着哭着就笑了;长大后,笑着笑着就哭了。

泣いていても泣くうちに笑い出せるのが幼い子の幸せ、笑っていても笑ううちに泣きたくなるのが大人の辛さ。

☆叶子☆ 8:43
大人の辛さより涙が脆くなつったと思います。[偷笑][偷笑][偷笑]

Zheng Ju 8:54
それは幸せな人生を送ってきた方の場合。人生長く生けば、傷跡が箇所箇所に残り、それが何かに隠されても消えた訳ではない。笑っていても笑いが苦笑いになるんだね。

木に子 9:24
男はつらいよ

女にはわかりませへん

小草 9:46
人前微笑,一转身他/她的背影在哭泣。
(大人の真心かな[偷笑])

好像-刘墉说过一句经典

“以求不负我心”
--

晓寜 11:40
苦笑いが渋々笑った事がある、やっぱりよく笑ったほうが多いかな[呲牙]

左藝 13:23
泣いていても泣くうちに笑い出せるのが幼い子の幸せ、笑っていても笑ううちに泣きたくなるのが大人の辛さ。〜喜欢

小草 19:49
泣いたカラスがもう笑うのが子ども、顔で笑って心で泣くのがおとな。

小时候,哭着哭着就笑了;长大后,笑着笑着就哭了。




————— 2016-12-9 —————

木に子 1:17
图片4(可在附件中查看)

不要轻易评价别人,因为你没有经历过他的人生。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-09&p=i

左藝 1:37
安易に他人を評価しないで、君が彼の人生を経験したことはないからだ

seiji☆☆morisako 5:22
安易に他人の評価をしては成らぬ、何故ならあなたは彼の道程を歩んでいないからさ。

Zheng Ju 8:12
不要轻易评价别人,因为你没有经历过他的人生。

人を安易に決め付けてはいけない、何故なら君はその人の人生を経験していないからだ。

左藝 8:20
@seiji☆☆morisako 「道程」という言葉は新しい!勉強になりました

@Zheng Ju わかりやすい[强]

木に子 8:31
他人事知らず、どのこの言わず。

左藝 8:51
图片5(可在附件中查看)

群主に負けた[难过]

木に子 8:56
@左藝 様こそ、いつも誰にも負けず、尊敬しております。[抱拳]

高明黎 9:05
僕は、木子大師の人生を経験してません。でも、色々と言ってみたいです。[得意]

左藝 9:08
@高明黎 我都笑出声了[呲牙]不知道您听见没[呲牙][呲牙]

木に子 9:22
@高明黎 大師こそ、俺にも負けず頑張ってこられて、とても尊敬しております。[抱拳]

小草 9:23
不要轻易评价别人,因为你没有经历过他的人生。

あなたが彼の人生を経験したことがないのだから、簡単に他人の事を評価してはいけない。

左藝 9:24
雨にも負けず、風にも負けず

木に子 9:25
@高明黎 大師様、ところで、大師の湯って、とても良いモンで、一緒に行かない?

THE SPA 西新井

私はいつも @左藝 大師に負けておる[抱拳]

左藝 9:31
男同士が一緒にお湯に入ることは、「裸の付き合い」と言います[偷笑][偷笑]




————— 2016-12-10 —————

木に子 0:50
图片6(可在附件中查看)

如果我真的存在,也是因为你需要我。 http://www.51wnl.com/products.html?f=13&date=2016-12-10&p=i

左藝 7:25
もし僕が本当に存在するらな、それは君が僕を必要とするのからです

木に子 7:33
如果我真的存在,也是因为你需要我。(摆渡人)书评

左藝 7:36
☆“の”は余計?

木に子 7:37
I exist because you need me.

左藝 7:37
もし僕が本当に存在するらな、それは君が僕を必要とするからのです

木に子 7:44
君が要る儂が居る。

Zheng Ju 7:45
如果我真的存在,也是因为你需要我。

僕が本当に存在したとしても、それは君が僕を必要としたからだ。

高明黎 7:52
僕が本当に存在するとすれば、君が僕を必要とするからである。

Tian Hui 9:50
君のため 僕がある

木に子 10:02
@Tian Hui 良いね。撤回されたのも良かった。見ちゃった。
君は俺の生き甲斐。
だった哉?

Tian Hui 10:37
君こそ 僕の生きがいである

木に子 10:51
@Tian Hui そうだった[胜利]
君こそ俺の生き甲斐!
男らしいね

左藝 11:16
图片7(可在附件中查看)



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# by li_japan | 2016-12-10 15:57 | 一言一会 | Comments(0)

長々と 川ひとすじや 雪野原/野沢凡兆

————— 2016-12-10 —————

木に子 23:48
1210(六)中学受験俳句冬篇No.10
長々と 川ひとすじや 雪野原
【作者】野沢凡兆
【季/季語】冬/雪野原
【説明】雪の朝、野も畑も道もすべて雪の原になってしまっている。その中をひとすじ、川だけが長々とうねり続いている。
【発音】長々(ながなが)と/川(かわ)ひとすじや/雪(ゆき)野原(のはら)

一面が白一色の広々とした雪原(せつげん)に、冷たく澄(す)んだ水をたたえた川がただ一筋、遥(はる)かにうねり続いていることだ。

ひっそりと静まる清浄で広大な雪原と、そこにくっきりと浮かび、凛として貫く一筋の川の存在との対比が大変鮮やかである。自然の雄大な景観、心静まる清浄な世界が詠われている。(冬・二句切れ)

※長々と川一筋や… 川が一筋、長々とうねり続いていることだよ、と詠嘆を表している。
※雪野原(ゆきのはら)… 降り積もった雪に覆(おお)われた野原。冬の季語。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、[表情]句切れ(文としての意味の切れ目)、[表情]作者の感動の中心を表す。

※体言止め。
※倒置法… 「雪野原」は意味の上では一句目に来る。

※野沢凡兆(のざわぼんちょう)… 江戸前期の俳人。加賀金沢の生まれ。蕉門の人々との交わりを経て後、元禄三年(1690年)、「おくのほそ道」の旅を終え京に来た松尾芭蕉に向井去来の紹介で会い、教えを受ける。句風は客観的で印象が鮮明、絵画的な色彩感にも富む。正徳四年(1714年)没。享年不詳。
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图片1(可在附件中查看)

Zheng Ju 6:38
中学受験俳句冬篇No.10
長々と 川ひとすじや 雪野原

白雪盖原野 长々小河似蛇行 鸟绝人无踪

高明黎 6:40
中学受験俳句冬篇No.10
長々と 川ひとすじや 雪野原

源远又流长 一条大河碧泱泱 雪野白茫茫

云端 6:50
中学受験俳句冬篇No.10
長々と 川ひとすじや 雪野原

天地一苍茫 小河蜿蜒向远方 雪野闻水响

还珠格格[表情] 7:37
中学受験俳句冬篇No.10
長々と 川ひとすじや 雪野原

白雪盖荒原 江河冰水流缓慢 凄凉严冬天

木に子 7:40
虽感觉 十六字令难 再挑战!
平 中仄平平仄仄平 平平仄 中仄仄平平
涓 清流源々贯入天 茫々雪 山野到平原
@高明黎  老师请看々 对不对?
茫々雪中涓 清流源々贯入天 山野到平原

高明黎 7:44
大体没问题,意境靠自己个

还珠格格[表情] 7:45
靠自己个[呲牙]

我也跟一个

荒!
白雪皑皑盖野疆。
冰河水,流淌去何方。

木に子 7:50
@高明黎 总祘没问题! 谢老师[抱拳]

云端 7:51
潺!
寂寥苍空映雪原。
蜿蜒去,
河水走天边。

我也靠自己个儿[愉快]

高明黎 7:58
@碧空秋水 @云端 [呲牙][得意][强]

云端 8:02
@高明黎 谢大仙儿[呲牙]

还珠格格[表情] 8:03
@高明黎 谢大仙儿[呲牙]

高明黎 8:03
@碧空秋水 @云端 俺只敢在木子大师面前卖弄

还珠格格[表情] 8:04
@木に子 木子大师勤奋[强]

云端 8:04
@木に子 木子大师勤奋[强]

木に子 8:21
真不好意思 感谢@高明黎 老师 还需更努力
也感谢 @Zheng Ju 老师 今大役 没有你提起 何谈兄和妹?(35355短歌)
谢二妹夸奖 @碧空秋水 & @云端 愚兄有礼了
敬请在~处 只再添加一个字 就是佳汉俳
白雪皑皑盖野疆 冰河水~荒 流淌去何方
寂寥苍空映雪原 蜿蜒去~潺 河水走天边
现在是中五 也可移左成前五 便成经典句[勾引]

还珠格格[表情] 9:14
白雪皑皑盖野疆 冰河水色荒 流淌去何方

@木に子 是酱紫(这样子)吗?

高明黎 9:19
@碧空秋水 括号是[表情]足![呲牙][惊讶]

云端 9:21
寂寥苍空映雪原 蜿蜒水潺潺 河水走天边

还珠格格[表情] 9:28
@高明黎 我怕大师看不懂[偷笑]可能真的是[表情]足[呲牙]

木に子 9:49
@碧空秋水 @云端 @高明黎 好酱紫[胜利]再者[勾引]
冰河水色荒 白雪皑皑盖野疆 流淌去何方
蜿蜒水潺潺 寂寥苍空映雪原 河水走天边
いかが?[抱拳]

还珠格格[表情] 9:57
好像puzzle[偷笑]

原创一句[调皮]

【原创】
布団を干し 小春日和に やりたがり[太阳]

连日暖冬天 晒晒被子洗窗帘 风起五彩帆

木に子 10:01
百度翻译

パズル - Wikipedia

云端 10:06
@碧空秋水 充满生活气息[强][强][强]

木に子 10:13
@碧空秋水 良い考え!汉字积木。同人誌の英名はKanji Puzzleも良いですね。句も[强]良い母さん

云端 10:37
北大地 ひたすら走る 郷の夢

一望了无边 动车疾驰大平原 思乡梦难圆

原创[偷笑]

还珠格格[表情] 10:42
@云端 回老家的赶脚[呲牙]

木に子 10:42
一路平安

还珠格格[表情] 10:42
@云端 我也被感染[强][强][强]

云端 10:45
@碧空秋水 @木に子 [玫瑰][玫瑰]

木に子 18:38
玉のごとき 小春日和を 授かりし/松本たかし : 一言一会/那三届

玉のごとき 小春日和を 授かりし/松本たかし
http://sxcn.exblog.jp/23701535/

遠山に 日のあたりたる 枯野かな/高浜虚子
http://sxcn.exblog.jp/23701537/
高浜虚子様も男だった

遠山に 日のあたりたる 枯野かな/高浜虚子 : 一言一会/那三届



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# by li_japan | 2016-12-10 09:43 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)

国画江山老师中国花鸟小写意讲座

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————— 2016-12-9 —————

浮雲 9:12
予定:今天东京时间九点 ,北京时间八点 ,我们开始请周老师上课。另外,周老师在国内较忙,还要经带出差。有时候不能保证每天,这个时间授课,一切以周老师方便时间定夺。第一次通过微信平台接受指导,我们完全沒有经验,希望大家配合周老师,互動連携、办好这个指导班,谢谢。
20161209

姑苏拙斋 周江山 9:43
中午 我说一下需要的工具和材料。晚上 再说一下 然后开始上课

晚上 后来的朋友别急 我还会再讲一遍

国画的工具和材料 有宣纸,我们学习小写意的用纸 是生宣纸 纸张有正反面的 正面向上

视频1.mp4(可在附件中查看)

其他的材料有墨汁 国画颜料 而不是其他的水彩 水粉油画 丙烯颜料哦

图片1(可在附件中查看)

最常用的 消耗量最大的有这么几种

图片2(可在附件中查看)

其中藤黄的消耗量最大 可以多备几支

如果国画颜料购买不方便 那么用日本的这种颜料也行 但是价格要高很多 当然品质也会好很多

图片3(可在附件中查看)

图片4(可在附件中查看)

图片5(可在附件中查看)

还有毛笔 毛笔要兼毫的一支或两支。小楷 勾线笔 也需要

图片6(可在附件中查看)

图片7(可在附件中查看)

还有笔洗 就是洗毛笔的器皿

图片8(可在附件中查看)

水面的高度 要眼睛看得见为准

还有 小毛巾一块 要湿透了,拧干 折好 备用

图片9(可在附件中查看)

旧一点不要紧

调色盘 最好是瓷的 这样分量比较重 不会被笔移来移去

图片10(可在附件中查看)

大一点的毛毡或棉布一块

图片11(可在附件中查看)

我现在这里是棉布 垫在下面 做吸水用的

这些工具的整个布局是这样的

图片12(可在附件中查看)

别乱了 养成习惯就好了 东西别乱放。

还有一个很重要的事情就是画面上不能放不必要的东西 除了镇纸。

图片13(可在附件中查看)

镇纸可以压在纸张的一个角落

镇纸的要求 尽量重一点 不建议用木质的 因为太轻

今后毛笔会逐渐的多起来 你可以这样保管:

图片14(可在附件中查看)

注意 是笔的顶部与笔帘的底边对齐

这样是不对的:

图片15(可在附件中查看)

毛笔用完了 要洗干净。洗毛笔的方法是这样的:

可以用非常少的水 将毛笔洗干净 尤其是写完书法以后的毛笔

约三十度角度 不是垂直哦 转动碾压

图片16(可在附件中查看)

如果是写完书法 可以在砚台里面放满水 斜着(约30度的角度)转动碾压 半分钟 然后将水换掉 再放满水 斜着碾压 反复六次 可将毛笔洗干净。洗干净是必须的 否则会减少毛笔的使用寿命

洗完笔以后 将笔锋的水 在小毛巾上打掉 是这样打的 笔肚子在小毛巾上敲几下就行了 理顺笔锋 纳入笔帘。将笔帘卷紧扎好便可以了。注意 毛笔在笔帘里面要这样的

图片17(可在附件中查看)

不能这样

图片18(可在附件中查看)

这样 笔锋会弯曲 毛笔就报废了

如果你的桌面足够大 则可以将毛笔洗干净后悬挂在笔架上

大家看看我有没有那个地方讲得不够清楚 还没有理解。大家要踊跃发言 多多互动 [呲牙]

这些工具和材料 大家可以准备一下。晚上我们可以走一下基本的笔法了。如果今天不方便 改天也行 但是尽量快一点 你就可以早日进入状态了。准备好了工具材料 拍个照片给我看看。[呲牙]放在桌面上的格式 给我看看 因为不一定每个人都是正确的[调皮]

王嘉晨 13:54
如果需要买第一支画笔,老师有什么推荐呢?@姑苏拙斋 周江山 

姑苏拙斋 周江山 13:55
兼毫。笔锋的长度是这样的

图片19(可在附件中查看)

AIDE人材 13:55
提问[表情],老师,我可以先用水彩颜料代替吗

姑苏拙斋 周江山 13:56
最上面的那个

因为国画颜料的成分 不少都是矿物质的。

如赭石 朱膘 朱砂 石绿 石青等 花青 藤黄 是从植物中提取出来的

但是国内的花青 现在质量不好 建议用日本的

图片20(可在附件中查看)

浮雲 14:39
我是门外汉,想先学学用铅筆甚至钢笔画个小動物什么的,有无可能呀?。千万不要笑俺。当然必要的画笔及画具也是必须的。

姑苏拙斋 周江山 14:45
嗯 我会带着大家循序渐进 深入浅出

今天晚上讲解一下基本笔法:螳螂肚

晚上北京时间八点 东京时间九点 时间约为九十分钟。如果时间段大家觉得不合适 还可以调整。

嗯 尽快准备吧 这样你就可以早日进入状态了[微笑]



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# by li_japan | 2016-12-09 19:43 | 語の録 | Comments(0)

遠山に 日のあたりたる 枯野かな/高浜虚子

遠山に 日のあたりたる 枯野かな/高浜虚子 ②
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————— 2016-12-9 —————

木に子 1:22
1209(五)中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな
【作者】高浜虚子
【季/季語】冬/枯野
【説明】あたりは日がかげって、寒寒とした枯野であるが、遠い山にだけ冬日があたっていて明るい。「遠山」=遠くに見える山。
【発音】遠山(とおやま)に/日(ひ)のあたりたる/枯野(かれの)かな

日は傾(かたむ)き、辺りはすで陰(かげ)って暗い寒々とした枯れ野原が広がっている。遥(はる)かに見える山の頂(いただき)は夕日を照り返し、ほっとするような暖かみのある赤い光を美しく放っている。

寒々とした冬枯れの野原の寂しい情景の中、遠山にわずかに差す夕日のぬくもりに心の縁(よすが)を見つけた思いを詠っている。空間的な広がりと、明暗の対照が大変印象的である。(冬・句切れなし)

※遠山… 遠くに見える山。
※枯野… 草や木の枯れ果てた野原。冬の季語。
※枯野かな… 枯野であることだよ、と詠嘆を表している。

※切れ字… 「かな・けり・や」などの語で、[表情]句切れ(文としての意味の切れ目)、[表情]作者の感動の中心を表す。

※後年虚子はこの句について、「目の前にある姿で作ったものが本当だ。松山の御宝町(みたからまち)の家(虚子の実家)を出て,道後の方を眺めると,道後の後ろの温泉山にぽっかり冬の日が当たっているところに,何か頼りになるものがあった。それがあの句なのだ」と述べている。実際には虚子は枯れ野に立っていたわけではない。

※明治33年(1900年)11月、虚子26歳の時の作。

[表情]季語と季節の特定、鑑賞や主題、切れ字の知識など、この作品に関する問題が教材やテストでよく出題されるので注意しよう。
d0007589_19281086.jpg

※高浜虚子(たかはまきょし)… 明治~昭和期の俳人・小説家。愛媛県松山市生まれ。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰。客観写生・花鳥諷詠を主張し、定型・季語を離れた新傾向俳句を推進する河東碧梧桐と激しく対立した。昭和34年(1959年)没。

・花鳥諷詠(かちょうふうえい)… 昭和初期に高浜虚子が唱えたホトトギス派の主張。四季の変化によって生ずる自然界の現象およびそれに伴う人事界の現象を無心に客観的に詠むのが俳句の根本義であるとするもの。

・「ホトトギス」… 俳句雑誌。1897年(明治30年)創刊。正岡子規、高浜虚子らが主催。写生を主唱として今日に至る。夏目漱石の小説も掲載され、また、写生文の発達にも貢献した。

高明黎 7:48
中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな

极目远山尽 冬阳西斜照混沌 枯野万重仞

木に子 7:49
图片1(可在附件中查看)

Zheng Ju 8:06
中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな

夕阳映远山 极目茫茫枯草烟 荒野望无边

云端 8:16
中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな

遥望远山凉 依稀山顶覆残阳 旷野枯草长

还珠格格[表情] 9:13
中学受験俳句冬篇No.09
遠山に 日のあたりたる 枯野かな

云高远山寒 冬日残阳树影阑 荒野枯枝乱

木に子 9:32
冬山远 夕阳红又暧 枯野寒
冬天山遥远 匆々夕阳红又暧 茫々枯野寒

群友周江山画家,愿意业余免费指导群友作画。中国画基础开始讲起,有讲授,解答,及视频等等。予定每天,北京时间八点,东京时间九点开始授课,赶不上的可以看群记录。
群名暂定:「江山老师中国花鸟小写意指导班」。群友作诗之外,还会学习作画陶冶情操,希望诸位踊跃报名。谢谢。
20161209

图片2(可在附件中查看)

浮雲 10:01
@木に子 将来把那扇子上画满景物,写上満满的俳句与汉排,直接送给日本友人好了。并且是一个团队送[表情]

@云端 阳春白雪,和者必寡。这个有点难。不过说到唱歌,我是不跑调的,下次你凯旋回东京,约几个人去咔拉欧开亮亮嗓子吧[表情]

木に子 10:17
@浮雲 胡兄,我最近感觉中国的诗词是阳春白雪,而中文的川柳(俳句)是下里巴人。突然想起一个西安方言,汉川[呲牙]

浮雲 10:22
@木に子 中国是方框字汉字王国,日本是从中国那学来的,汉排超过汉诗更不可能。不过俳句、作为日本独有的语言成分,短小精悍,我们似乎也可学习其中之精华吗。[表情][表情]

木に子 10:26
汉排和汉诗,不存在什么谁超过谁的问题。但是,日本的川柳作者的比率远々地超过了中国的诗词作者的比率。

浮雲 10:30
这可不一定吧。写俳句的日本人是不少。会写诗的中国人更多,来年那本坛诗集一出版,又会冒出不少人出来。[表情]

只要站在自己的立场上得到满足感就可以了。日本人很喜欢俳句,我们当然尊重人家。

话说回来,日本的自己独自古文(不是古汉文),更难,我们也欣赏不了。

木に子 10:38
只东京都内每月出的俳刊有上千册,北京市内每月出的诗集有多少本?

而且每册俳刊的作者都是几十人,可见人数之多

浮雲 10:40
问题是他们出有人看,有人买。中国出也没人理会,这就是继承传承文化上的差距。

木に子 10:42
他们出有人看,不买。

只用作相互交流,交换

浮雲 10:43
是这样的吗?好主意,互相换。

木に子 10:44
是吧,这是日本的做法

我们也想搞个汉俳同人誌、好去打入日本俳界,与别人进行交流

名拟定为八仙过俳海,如何?

浮雲 10:50
@木に子 你觉得汉俳有戏就好呀,但是互相换的交流,我们还是不习惯。

八仙过俳海,这名子稍有点江湖上的味道。那么多大师在此,只要内容好了,就是个封皮,自然水到渠成,名称相附了。[表情]

木に子 18:14
图片3(可在附件中查看)

这都是东京都内俳句的著书的一小部分

都不卖。唯一能卖出去的只有NHK的

云端 21:58
俳句・汉俳(云端VS碧空秋水)



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# by li_japan | 2016-12-09 19:15 | 一俳一会(俳句,漢俳) | Comments(0)